預言に対する確信

エルサレム入城のロバとか、確保されるときとか、イエスの行動や言動には預言の自己成就的な行動がよく見られるけど、エルサレムの手前で預言だとメシアはロバに乗ってくるってあるからちょっとロバ連れてきてよと弟子に依頼、これは二次創作の逆行物で見られる未来を変えるとこれから起こる未来知識が使えなくなってしまうから知っている原作通りに振る舞うってのに似ているのかもしれない。
なんとなく茶番みたいな感じがしてたんだけど、預言に絶対の確信を持っているのならば、それが神の告げたベストアンサーであるとするのならば、そら預言が成就することを第一にするよなあっと。そう考えるとゲッセマネの祈りも、なるほどなー、となるし、大人しく確保される下りも、その後の行動もよくわかる。山も動くレベルの確信。

口語訳 マタイ21:1-4
さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。

口語訳 マタイ26:39
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」

口語訳 マタイ26:51-56
しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

口語訳 27:39-43
そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。

諸行無常っていうかさ

いま現在しかないっつー話だわな。盛者必衰とか観測者ありきの、こっちの主観的な話であって、現実的に客観的に見たら、おちぶれたそいつがいま現在いるだけっつー話であって、気を使った結果として話は合わせてるものの、基本的に率直に言うならば、過去がどうとか、未来がどうとか、そんなファンタジーな話やめてくださいますっつー感じではある。音符はあるけど音楽はない的な話。実際にその瞬間瞬間に音は鳴ってるけど、その音と音の関係性である音楽ってのは聴いてる人の中にしか存在しないよねっつー。

循環参照エラー

人の話を聞くのが得意なモモは人がいないときでも、犬や猫、コオロギやヒキガエル、雨や風、星空の声に耳を傾けるように、アルケミストの少年は砂漠でも本を読み続けるイギリスから来た見習い錬金術士とは対照的に周りの人々や風、そして砂漠の声に耳を傾けることで学んだように、わたしから離れるというか、意識を外に向けることが必要な気がする。忘我というか離我というか、我が我がになると循環参照エラーに陥りやすいんじゃないかなとか思う。
見習い錬金術士のようにひとりのときでも我が我がだと危うい。モモや少年のように外に目を向けることが可能なのに、というよりも外に取り囲まれ、実際はそのほとんどが外であるにもかかわらず、内向きな、我が我がの思考をしていることが、そもそもやばい。もちろん、そこには様々な宝物があるんだろうけど、単独で潜り続けるには危険なダンジョンであることには間違いない。Excelみたいに循環参照の最大反復回数を指定することができればいいんだろうけどさ。