美徳の実践に価値を置くってのはなかなか合理的ではあるよなあっと、そんな考えの人を見てふと思う。美徳を実践した結果が報われる報われないどうこうじゃなく、美徳を実際に出力できてる俺すげえ、的な満足。
横断歩道の白線だけ踏んで渡れたら自分の勝ち、とはちょっと違うか。ラジコンで難しいテクニックが成功したときのような、ってこれもちょっと違うな、行為じゃないけど、あこがれの人が身につけてる服や小物を身につけてる時の満足感に近いと思う。自分が最高に価値あると考える、優れた人間でなければなしえない美徳を、この自分の身体が出力しているという、すなわち自分も優れた人間として振る舞えている証左であるみたいな、そんなカンジなんだろうなっと。一体的な満足感というか。
いい子にしてたらサンタさんがプレゼントくれるよ、ではなく、いい子にすること自体が最高に価値のあることなんだよ的なこの考えは、善人が不遇の死を迎えるのに悪人は子々孫々まで栄えているこれいったいどうなってんの、なんてーのも解決できる。不遇だとか報われないだとか言ってるけど行為の結果なんてそれこそただのおまけ以下であって、善の実践、人間の最高の価値である美徳の実践、それ自体で最高の栄誉であり幸福であるのだから、ってカンジで。
内面の価値がどうのこうの、いいことしても報われないどうのこうの、なんて考えと比べると、はるかに実践的で合理的、おまけに自己完結的でいい考え方だなあって思うんだけど、欠点としては美徳を美徳として本気で本当に皮膚感覚的に思ってなきゃ、意味ないんだよなあ。過去の聖人を本当に崇め奉ってて、あこがれの存在として、自分もその真似が、一体になるような同一化を望んでる、ってくらいの美徳スキーじゃなきゃ。や、単独で美徳スキーなだけでもいけるんだろうけどさ。でも、美徳なんていわれても、へー変わったご趣味をお持ちですね、くらいにしか思わない自分くらいの、え?美徳?あ、なんか聞いたことあるかなー、ってレベルにとっちゃ、はなはだ非現実的な価値観であり行動様式だよなあ。や、違うか。生かし方次第か。適当な価値観を持ってくれば。