こじらせない生き方

こじらせるとは、本当の気持ちを誤魔化すこと、そしてその誤魔化しを受け入れてしまうことであるとする。
たとえばすっぱいぶどうで言えば、ぶどう食べたいなーっという気持ちを、あのぶどうはすっぱいに違いないと誤魔化し、だから食べなくて正解だと受け入れること。あー、食べられなくて残念だなーっとそのまま受け入れればいいだけなのに、脳のおせっかい機能として自分を守るために現実の認識を誤魔化す。
そうすることでその場でのダメージは減るけれど、長い目で見れば、本当の気持ちがわからなくなる、誤った前提が固まってしまう、うそにうそを重ねることで自縄自縛に陥ってしまう等々の弊害が大きい。しかしおせっかいおかんである脳の基本的な行動理念は、現状維持と自我を守ることであることからして、長期的な弊害など知らん顔で短期的な現状と自我を守り続けるために認識を歪める。いいわるいの話というよりは、放っておけばそのようになりがちという話。
一般的なこじらせ方、童貞をこじらせる、青春をこじらせる、女をこじらせるも基本的には同じ。受け入れがたい現実を前に、自我を守るために認識を歪め、たとえばすべては顔だからモテないんだと認識を歪めることで努力も行動もしない自我を守るように、そしてそれを受け入れることでどんどんこじらせが増していく。なぜなら歪めた認識を前提として現実を見て、更に認識を歪めるため、現実と認識はどんどんずれていく。過呼吸の人のように最初のきっかけは物理的な現実的な外部的な要因であるとしても、そこから過呼吸を加速させていくのは自らの過呼吸であるように、自家中毒的に認識が歪んでいく。


よしもとばななのキッチンはシンプルな話で、あれに書かれていることを一言で言ってしまえば、大切な人が死んだときにいかにバイバイするかという話。大切な人の死をちゃんと受け入れることができないと、死をこじらせてしまう。もしもあのときこうしていればとか、どうしてこんな理不尽なことがとか考えるのではなく、大事なことは今までありがとうと笑顔でバイバイすることと、ご飯をつくり食べて眠ること。ただそれだけ。キッチンってのはそういう場所で、笑顔でバイバイできてないと、ちゃんとご飯をつくって食べないし、ちゃんとご飯をつくって食べないと、キッチンは薄汚れて暗くなる。綺麗でも汚くでもなく、薄汚れて暗くなる。
そしてこれは死以外にも同じことが言える。たとえば失恋で考えるとわかりやすい。失恋したときに大切なことは、その恋に執着してしがみつくことではなく、笑顔でバイバイして、きちんと日常を送ること。マンガの高杉さん家のおべんとう的な対処でもある。


基本的にこじらせない生き方としてはこれに尽きる。更に突き詰めれば、一休禅師のうなぎの逸話や川で女性を背負う僧侶の話のように、一言になる。現在を生きること。
弟子と歩いてる途中にうなぎ屋の前を通って美味そうだなとつぶやいた一休はしばらくしてから弟子に問われる。先ほどの言葉はよくないのではないですか。すると一休は答える。なんだお前はまだうなぎのことを考えていたのか、わしはうなぎ屋の前に置いてきたぞ。
2人の僧侶が歩いていると増水した川の前で渡れない女性がいた。1人が女性を背負って川を渡った。その後2人は歩き続け夜になり寝るときになってもう1人が問うた。女性と触れ合うのは戒律で禁止されている。よくないのではないか。背負った僧侶は言った。なんだお前はまだ背負っていたのか。自分は川で降ろしてきたというのに。

まあここまでの現実認識はむずかしいにしても、こじらせるというのは問う側の心理と似ている。過ぎ去った事柄に執着することで、いたずらに悩みを増やして背負う行為と変わらない。目の前の現実、現在に集中することで、こじらせないことは可能だがむずかしい。まあ過去を受け入れていくことで、失敗や不条理も肯定して受け入れていくことで、結果としてこじらせない生き方は可能になると思う。誤魔化さないこと、素直になること、受け入れていくこと、これからを生きていくこと。そこらへん。


そんなことをバキと秒速5センチメートルのクロスオーバーSSを読んでて思う。こじらせ系の秒速勢に、トンデモ系ではあるが現在の純度が高い己のわがままを貫き通すバキ勢は、肉汁したたるステーキに国産はちみつをかけるような料理ではあるものの、なかなかどうして、いい味だった。