そういや昔は

酔ってるときと普段のそれとどっちが本当、なんてベタなことを思ったりもしたけど、いつの間にかそうは思わなくなったな。酔っていて歯止めが利かない自分と、体調が良く余裕があるときの自分。どっちが本当の自分とかじゃなく、その場その場で現れてくる現象が自分って感じで受け入れるように、認識するようになってた。知識じゃなく感覚として、データじゃなくインスコってあんな感じで。
って、検索してみたら、微妙に違ってた。

2006/06/25
酒に酔ったり疲れてたりして思考能力や判断能力が落ちてるときに、普段は言わないようなひどいことを誰かに言ったとして、次の日にあれは酔ってたから、あれは疲れてたから、あんなことを言ってしまったんだよ、と本人や周囲からの謝罪やフォローが出ると思うけど、それを聞いた昨日ひどいことを言われた人が、あぁ、そう、と納得することは、まあ付き合い上は納得するかもしれないが、恐らくなく*1、本当はそう思ってるんじゃないの?それは本音と言うんじゃないの?それがあなたの本当の気持ちじゃないの?と思ったりすると思うんだけど、もしそうだと、この言葉通りだとすると、思考してる判断してる自我ってのは本当の自分じゃなく、その奥であーだこーだ思ってる、欲望とか快不快とかそこらの所が本当の自分ってことになり、思考してる判断してる自我ってのは単なる水門の開閉役、判子を押して許可を出すだけの役に過ぎないってことになるんじゃね?っと。(後略)

酔ってるときや疲れてるときにでる言葉が本音なら、自分ってのはそこにあるのか、それともそれを本能的なものとしてそれらを抑えてる理性を自分とするのか、的な感じかな?まあ、それにしたって大して変わらないか。トータルとしての、脳の浅い深いどころか体や場合によっては周りを含めての、現れを自分として、受け取ってるんだから。
まあ、引用したところの後に似たようなこと書いてあったから、『コンピュータもコードがなけりゃただの箱なんだから、二つで一つ、っつーか、それがなけりゃただの箱なのを生かしてるのが、それをコンピュータたらしめてるのがコード、みたいな。』、知識としてただ所有していたファイルが、時間を経ることでインスコされたって感じなのかな。