一匹のミミズの生涯に一体どれだけの意味があるだろう。
車の窓ガラスについた一粒の水滴に一体どれだけの意味があるだろう。
人生の意味なんて所詮はそんなもんで、死にたくないから生きるでも、十分すぎるほどお釣りがくる。


だからまあ好きにすればいいんだけど、好きにしていいって言われると困っちゃうのが人の性。
つーこって、パッケージ化された意味のある人生がお得になったりするわけで。
ひとりで自由に海外見て回るよりも、ホテルから行き先からすべて決まってるパック旅行の方が、大半の人には向いてるように。
初心者向けというよりは王道。YouがCanできるならDoしちゃうのがベター。
神様を信じられるならそれに越したことないし*1、王道ルートな人生を歩めるのならそれに越したことはない。


あれもダメこれもダメで、多数が参加する情報レイヤーから意味を担保してもらえない人は、まあ、がんばって。
物理レイヤーから見たら敬虔な信者もリア充も引きこもりもどれもこれも同じようなもん。
結局はミミズと変わらない。ミミズさんは空気の通り道を作ったり糞で土を良くするからどうのこうの。
そういう話じゃなくて、ノミでもウイルスでも土星でも銀河でもなんでもいい。


そっか。結局は情報レイヤーが意味を担保するってだけの話か。
神でもアカシックレコードでも世界の真理でもなく、ある集団が参加してる情報レイヤーが意味を担保するし、
その情報レイヤーにアクセスできるのはそれに参加する能力があるもので生きてる間だけ。
人間は生きてる間は自分の評判は聞けるけど、ミミズは生きてても自分の評判は聞けない。
そして人間も死んだら自分の評判は聞けない。


ま、ミミズみたいに生きましょうっつーことで。

*1:それこそ種まきの譬えのように

人がひとりでいるのは良くない(創世記2:18)

自分のためだけに生きるには人生は長すぎる。
というか、人生と比べたときに自分の価値が軽いという方がしっくりくる。
更に言えば、人生なんてものがそもそも羽毛よりも軽いという方がしっくりくる。
そう大したもんじゃない、蟻の一匹、車の窓についた雨だれ、空気中のチリ、そこらへんに近いんだろうけど、それにしたって人生と比べたら自分の方が軽いんだから経験則的に他人のために生きた方が、充実感があってお得やで、って感じはする。本能的、社会的、そこらへんに考えてみても。

非モテコミットがウケのわるい理由

思い通りにならないものを思い通りにしようとするのがおもしろいんであって、はじめから思い通りになるものなんて奇特な人以外には興味を持たれない。
べつにこんなもの何にでもいえる。ゲームだったり、スノボだったり、ジャグリングだったり。1-1しかプレイできないマリオを誰がやり続けるだろう。木の葉しか滑っちゃダメなスノボにどれだけの人がハマるのだろう。3ボールカスケードより先に進めないジャグリングをどれだけの人が続けるのだろう。


単純なゲームデザインとして、非モテコミットは失敗している。ユーザーに媚びた結果、そこには何の困難もなく、何の喜びもない。解いてみたくなるようなイベントや、ワクワクするような世界観はなく、予測とすら言えないような決まりきった消化試合が待っているだけ。もちろん100-0の予定調和の圧勝劇。
予想は裏切れ、期待は裏切るなというエンタメ周りの言葉でいえば、非モテコミットは、予想を裏切らないことによって期待を裏切っている。顧客にいったい何を提供するべきなのか?顧客は顧客自身が本当に欲しいものをわかっていない。もっと早い馬車を提供するべきなのか、車を提供するべきなのか。ドリルを提供すべきなのか、穴を提供すべきなのか。彼らはより早くより便利に移動したいだけであって、それを表す言葉を知らないから早い馬車を求めているだけではないのか。


予想を裏切ることをディスに言い換えることもできる。ディスる人は予想を裏切ることで期待を裏切らない。彼女たちにより高いゲーム性を、思い通りにならないものを思い通りにしようとする体験を提供している。一方、非モテコミットは相手に媚びて予想を裏切らないことで期待を裏切っている。はじめから思い通りになることで、彼女たちにクソゲーという言葉すらおこがましいほどの退屈な体験を提供しているとしたらどうだろう?
はてさて、非モテコミットがウケのわるい理由は一体全体どういうわけなんだろう。

こじらせない生き方

こじらせるとは、本当の気持ちを誤魔化すこと、そしてその誤魔化しを受け入れてしまうことであるとする。
たとえばすっぱいぶどうで言えば、ぶどう食べたいなーっという気持ちを、あのぶどうはすっぱいに違いないと誤魔化し、だから食べなくて正解だと受け入れること。あー、食べられなくて残念だなーっとそのまま受け入れればいいだけなのに、脳のおせっかい機能として自分を守るために現実の認識を誤魔化す。
そうすることでその場でのダメージは減るけれど、長い目で見れば、本当の気持ちがわからなくなる、誤った前提が固まってしまう、うそにうそを重ねることで自縄自縛に陥ってしまう等々の弊害が大きい。しかしおせっかいおかんである脳の基本的な行動理念は、現状維持と自我を守ることであることからして、長期的な弊害など知らん顔で短期的な現状と自我を守り続けるために認識を歪める。いいわるいの話というよりは、放っておけばそのようになりがちという話。
一般的なこじらせ方、童貞をこじらせる、青春をこじらせる、女をこじらせるも基本的には同じ。受け入れがたい現実を前に、自我を守るために認識を歪め、たとえばすべては顔だからモテないんだと認識を歪めることで努力も行動もしない自我を守るように、そしてそれを受け入れることでどんどんこじらせが増していく。なぜなら歪めた認識を前提として現実を見て、更に認識を歪めるため、現実と認識はどんどんずれていく。過呼吸の人のように最初のきっかけは物理的な現実的な外部的な要因であるとしても、そこから過呼吸を加速させていくのは自らの過呼吸であるように、自家中毒的に認識が歪んでいく。


よしもとばななのキッチンはシンプルな話で、あれに書かれていることを一言で言ってしまえば、大切な人が死んだときにいかにバイバイするかという話。大切な人の死をちゃんと受け入れることができないと、死をこじらせてしまう。もしもあのときこうしていればとか、どうしてこんな理不尽なことがとか考えるのではなく、大事なことは今までありがとうと笑顔でバイバイすることと、ご飯をつくり食べて眠ること。ただそれだけ。キッチンってのはそういう場所で、笑顔でバイバイできてないと、ちゃんとご飯をつくって食べないし、ちゃんとご飯をつくって食べないと、キッチンは薄汚れて暗くなる。綺麗でも汚くでもなく、薄汚れて暗くなる。
そしてこれは死以外にも同じことが言える。たとえば失恋で考えるとわかりやすい。失恋したときに大切なことは、その恋に執着してしがみつくことではなく、笑顔でバイバイして、きちんと日常を送ること。マンガの高杉さん家のおべんとう的な対処でもある。


基本的にこじらせない生き方としてはこれに尽きる。更に突き詰めれば、一休禅師のうなぎの逸話や川で女性を背負う僧侶の話のように、一言になる。現在を生きること。
弟子と歩いてる途中にうなぎ屋の前を通って美味そうだなとつぶやいた一休はしばらくしてから弟子に問われる。先ほどの言葉はよくないのではないですか。すると一休は答える。なんだお前はまだうなぎのことを考えていたのか、わしはうなぎ屋の前に置いてきたぞ。
2人の僧侶が歩いていると増水した川の前で渡れない女性がいた。1人が女性を背負って川を渡った。その後2人は歩き続け夜になり寝るときになってもう1人が問うた。女性と触れ合うのは戒律で禁止されている。よくないのではないか。背負った僧侶は言った。なんだお前はまだ背負っていたのか。自分は川で降ろしてきたというのに。

まあここまでの現実認識はむずかしいにしても、こじらせるというのは問う側の心理と似ている。過ぎ去った事柄に執着することで、いたずらに悩みを増やして背負う行為と変わらない。目の前の現実、現在に集中することで、こじらせないことは可能だがむずかしい。まあ過去を受け入れていくことで、失敗や不条理も肯定して受け入れていくことで、結果としてこじらせない生き方は可能になると思う。誤魔化さないこと、素直になること、受け入れていくこと、これからを生きていくこと。そこらへん。


そんなことをバキと秒速5センチメートルのクロスオーバーSSを読んでて思う。こじらせ系の秒速勢に、トンデモ系ではあるが現在の純度が高い己のわがままを貫き通すバキ勢は、肉汁したたるステーキに国産はちみつをかけるような料理ではあるものの、なかなかどうして、いい味だった。

簡単に分けるとこの世には3パターンの人がいる

まず世の中と友達になれる人と、世の中と友達になれない人がいる。
そして世の中と友達になれない人にも2パターンあって、世の中と友達になれない人とは友達になれる人と、世の中と友達になれない人とも友達になれない人がいる。

  1. 世の中と友達になれる人。
  2. 世の中と友達になれないけど、世の中と友達になれない人とは友達になれる人。
  3. 世の中と友達になれないけど、世の中と友達になれない人とも友達になれない人。

1がリア充、2がサブカル、3が非リア充
細かく言えばちがう部分もあるだろうけど、ざっくり言ってしまえば大体そんな感じ。

根本的な誤解

この世がシングルプレイではなくマルチプレイであるならば、いくらセーブ機能が使えたところでチート機能が使えたところで、攻略できないキャラはどうやったって攻略できない。なぜならそれが他プレイヤの意志であるならば、それがたとえどんな愚行だとしても、覆ることはないのだから。
こちらにできるのは最大限に人事を尽くすことであり、後は天命を待つことしかできない。死生命あり富貴天に在り。意志がない現象に対しても複雑すぎて予測できないのに意志まで数十億も介在してんだからわけわかめ。予測不可能性を運命とか天とかに仮託するのはなかなか賢いように思える。
まあいずれにしろこちらに決定権はない。アプローチは自由だが決定は向こうだったり、どこかわからない環境情報に従ったりする。だからバガヴァット・ギーターだったりアカギだったりにあるように、結果に執着して行為を疎かにするのはアホらしいって話ではある。
元々コントロールの外にある結果に囚われて、コントロールできる行為を失うとか、本末転倒というか、何を勘違いしてはるん?もしかしてあんたごときの努力やチートやセーブ&ロードごときで結果をコントロールできるとでも思ってたん?最良の選択肢を重ねていればすべてを手に入れることができてたとでも?っつー。念をこめてスロットのレバーを叩くと当たりが出やすい的なオカルト打法に通じるものがある。