世界に勝手に意味づけてるけど

理屈はあっても意図や意味がない世界にもしそれらがあったとしても、他人の内面に直接的に触れることが不可能なように、根本的にそれらに触れることはできない。だから強いて言うならば、意図も意味もない単なる現象である世界をそのまま受容することこそが、世界の意味を知ることであるとも言える。まあ、それこそが意味のない物に意味を与える行為でもあるんだけど。
ていうか、それってもしかして、全く意味のない元号に、語呂以外に全く関係のない言葉を関連づけて歴史を覚えるそれに似てるのかな。例えば鳴くようぐいす平安京。全く意味のない794年という年号に、全く関係のないうぐいすを関連づけて、平安京遷都という事実を覚えてる。意味や関係のなさは置いといて、現実問題として私はそれでその事実を覚えることができている。だから意図や意味がなかろうと、それに触れられなかろうと関係ない。私にとって役に立つから私は勝手に意味づける、って感じに。ああ、でも、やっぱり、そんなもんかもなあ。重要なのはむしろそこか。私にとって便利だから私は勝手に意味づけるってので十分なのかもしれないなあ。