この前の話の理屈

殺意を持っての殺人や戦争での殺人は別にいいんだけど、事故で人を殺すのが嫌すぎるってのは、事故を起こして人を殺した時の私は殺人は以ての外だという常識的な世界に生きている私だったから、常識的な世界の私が有している殺人犯が負わねばならない贖罪の内容から、逃れられないから嫌すぎるんじゃないか。
たとえば、人の死なんて本来償えず唯一の償いがあるとしたら自殺などで逃げることではなく生きて苦しみ続ける様を晒すことだって考えてたとしたら、その人殺しに対する思想が人を殺してしまった私にのし掛かる、そう考えてた時に事故で殺してしまった私は、人殺しに対して考えてたその考えから逃れられないんじゃないか。
そういった理屈だったけど、もしもそれが下の話にも適用されるとしたら、ネックだよなっと。象徴的なとこから作られた虚像が自分ならば、そこから逃れることはできないんじゃないか。昨日の話のようにせいぜいが新たな価値体系を導入するくらいであって、そういった体系自体からは逃れられねえんじゃねえかなっと。
でもまあ、そう大した話ではないか。問題はもっと現実的な施策。どういった価値体系を導入すればいいか。そもそも、どうすれば既存の価値体系から逃れて新たな価値体系を導入することができるのか。そういう話。虚像の自分が生まれ出でた時点での価値体系から逃れられないってんなら、そこで話は終わりさね。