シンプル

神がいれば善人は幸せに、悪人は不幸になるはずなのに、善人は非業の死を遂げ、悪人が天寿を全うしている、神は何をしてらっしゃるのだ?という問いに対するシンプルな答えは、そもそも神はいないから。
まるでマンガや小説のお話みたいな奇妙な出来事がなぜ次々に起こるのかという問いに対するシンプルな答えは、そこがまさしく創作の中だから。
なぜ自分は、一つの主体に帰するのが難しい、まるで他人であるかのように一貫性のない矛盾した行動を取ってしまうのかという問いに対するシンプルな答えは、そもそも一つの主体なんて、自分なんてないから。


1年も経てば細胞ごと変わり、たった1つの経験を経るだけで内面も大きく変わりうる、そんな存在が5年、10年、数十年という時間の中で、全く同一の存在であると言えるだろうか。いや言えまい。では、ハードもソフトも同じようなものなんて何一つないその存在を、何が同一のものであるとしているのか。それは名前。
私の名前を仮に山田太郎とすると、さっきのシンプルな答えは、私なんていない、山田太郎と名付けられた存在だけがいる、ということになる。様々な行動を一つの内面の主体として帰することができないのは、中身が変わりまくりなんだから、当たり前の話で、私の行動は内面という一つの主体に帰するのではなく、山田太郎という一つの名前に帰する。内面にあるとされる主体で括られるのではなく、名前によって括られる。ということは、名前こそが主体であると言える。


いやいや、内面ありきでしょー、変わってると言っても連続性があるでしょー、って気もするだろうけど、もし仮に見ず知らずの人間連れてきて、寝ているそいつの脳に、催眠でも手術でも不思議パワーでも何でもいいけど、お前は山田太郎であると焼き付け、周りの人間もそいつを山田太郎として認識するとすれば、明日からはそいつが山田太郎になる。今まで山田太郎であった私とは縁もゆかりも連続性も、何一つありはしない、ハードとソフトには何一つ共通点のないそいつが、山田太郎として存在しうる。
伝記を書くときに作者は少し悩むだろうが、天啓を受けたかのように云々として、それ以前とそれ以後が接続されて、山田太郎の物語は破綻することなく語られる。山田太郎という名前によって。伝記というと大げさだけど、普段から、私という存在も伝記の作者と同じようなことをしている。物語として一貫性を持たせて私を語り位置づけて存在させる。あたかも、内面にあるとする私という主体が、存在しているかのように。それによって、私が生きているかのように。
と、そんな与太話。シンプルっていうと格好いいけど、単純だよね、要するに。単一でもあるか。まー、でも、あれだよな。もしその与太がそうだとしてもでっていう話だよな。前に書いた話のたとえで言うならば国のあれがやっぱりわかりやすい。国王や政体が変わったところで国は国。政体やら王やらは違うけど、現在この国でトップなのは俺なんだから、俺が国だ、ガンダムだ。だからもし仮に山田太郎の中身が実は鈴木さんでも高橋さんでもジェニファーでもロペスでも、少なくとも今この時においては、俺が山田太郎であると言い張れるということでもある。そう取ることもできる話なんだからさ。