本当に駄目な人間だよな俺って

という、よくあるあの嘆き。あれのメンタリティってのは何なんだろうなっと、久しぶりにふと思う。昔に考えたときは、頭の悪い批判が、批判した相手よりも批判している自分が優位に立っていると錯覚する優越のために行われるように、過去の自分を批判することで現在の自分を優位に立たせようとする、涙ぐましい無意識の働き、ってな感じの意見だったけど、現在の意見は違う。自分を相対化するというアイデアは似ていなくもないけど、一言で言えば、現在の状況から逃げるための心の働き。
この前、絵の話を引き合いに出して、上手な人に対し、才能がある人は違うよなっと、口にする人が多いけど、絵の才能なんて誰もが努力で辿り着ける境地のその先へ行けるチケットのことであって*1、才能があれば最初から努力なしに超絶上手い絵を描けるような才能じゃない。そもそも何百何千時間努力した人が、初めて、才能というチケットの有無がわかるのであって、書く前から何の努力もしない人が、数十時間も描かない人が、結果として才能というチケットがあったけれどそこに至るまで何千何万時間描き続けた上手な人に対して、才能がある人は違うよな、俺たちと違うよなって口にすることは、滑稽でしかない。そんな話を書いたけど、それと似ている。
才能というチケットの有無がわかる場所に到達するまでの努力をせず、才能がある人は違うよなっと口にする人は、自分には才能がないから彼らの技量を持たないけれど、もし才能があれば彼らと同じように、彼ら以上に、優れた能力を発揮できるんだよ。まあ才能がなかったからしょうがないけれど、っと言い訳をしているに過ぎない。それどころか、こんなことを宣う輩までいる。努力する才能がある人はいいよねっと。努力を才能という言葉によって包むことで、努力することからすら逃れようとする。自分には努力の才能がないんだから、努力しないのは自分自身が悪いんじゃなく、努力する才能がなかったという、運が悪かったんだ、と。だからしょうがないと、努力をしない自分を、肯定している。
その考え方で、最初の問題、本当に駄目な人間だよな俺って、を言葉を考えると、どうなるか。自分の性質は本当に駄目な人間であるのだから、現状の本当に駄目な状況は、その状況下でも努力をしようとすらしない自分という主体にあるのではなく、本当に駄目な人間であるという性質にあるのだから、自分という主体は何にも悪くなく、しょうがない、ということになる。それが現在の自分が考えた意見。性質のせいにすることで、現状で何の努力もしていない現在の自分という主体を守ろうとする、無意識の働き。
あー、本当に駄目な人間だよな俺って。
必要なのは、生まれた国と性別くらいしか共通点のない、つまり他は全てまるっと違うってくらいに違う他人と比べて嘆くことではなく、その手持ちのど腐れスペックでいかに凌ぐかということ。スヌーピー的に言えば、配られたカードで勝負するしかないんだから、いかにしてそのカードを最適に切るか。腐って嘆いて投げやりになることではなく、最後まで諦めずに最高の切り札を考え続け切り続けること。そうすることで初めて負けた時に言うことができる。ああ、運が悪かった、って。

*1:誰しも何百何千時間描けばそれなりには、ある程度には、上達する技術であるように。