理屈+理屈

中古って言葉からわかるように、物的な存在、というか扱いなんだろう。だから、現在親しくしている相手との間を深めるコミュニケーションの一手段としてのセックスではなく、自分の物として登録する儀式としてのセックス
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身内と比べてそんなことを言う主人公が割といるけど、あれって逆なんじゃねえかなっとか思う。見ず知らずの人間の命が特別軽いんじゃなく、元々全ての人間の命が軽い中で、知り合い交流し関係を深めていくことによって、こんなにも重く、死ぬのが当然な世の中で死んだら深く悲しむくらいに、感じられるようになるって素敵やん、的な。
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以前書いた、コミュニケーションとしてのセックスって理屈に、見知らぬ人の命が特別に軽いんじゃなく全員の命が等しく軽い中で親しくなると重くなるって理屈、仲良い人でもちょっとした切っ掛けで話すことなかったら仲良くなることがなかったように、街ですれ違う人たちの中にもちょっとした切っ掛けさえあれば仲良くなれる人がたくさんいるだろうに、って意味で、交流を図ることで、親交を深めて、死ぬのすら悲しくなるのってすごいよねーって話、を足す。
するってーと、好きな人のためにセックスをとっておくっていう割と一般的な考えではなく、セックスというコミュニケーションを通じて好きな人を探していくっていう理屈になる。ま、自然不自然で言えば、そっちのが自然ではあるかな。てか乱交というコミュニケーションを取るコミュニティでの婚姻形態はどうなってたんだろ。子供は誰の子供とか関係なく村の財産として皆で育てるって話は聞いたことあるけど、住居はどうなってたんだろ。全員個別にってのはさすがに無理あるだろうし、男女2人をベースにすると情が移る気がするし。いや、でも、はじめからセックスをコミュニケーションとして捉えていれば、独占欲的なものはそもそも生まれてこないのかな?食事とセックスが入れ替わった世界では、他人と食事する方を嫌がるだろうし。
ま、最初の話に戻ると、イメージ的には男娼がわかりやすい。娼婦には被害者だとか攻められるだとかそんなイメージが少なからずついてまわるけど、男である男娼はその部分が少ないから。昨日の色っぽさの話もそうだけど、女っぽさを誤解してるとわかりづらい。たとえば男×男の受けが見せる仕草を女っぽく見えてしまうのは誤りで、正確に言えば、受けのポジションによる仕草に近い。女が受けのシチュエーションを数多く見てきて、それを普通だと思っている限り、それは女っぽさとして処理されるけど、女装やニューハーフなどではなく、女を志向していないただの男にもそのような仕草が見られるのだから、それは受けのポジション固有のものであり、色っぽさ=女っぽさではなく、色っぽさのカテゴリーに女っぽさがあるだけだよねっと。
って、そう書くとまた語弊あるのかな。攻めの妙がわかっていないと。まあ、まだわかんないけど、攻め好きの人もいるんだから、そういうのもあるんだろうな、多分。でも、受けのポジション固有のリアクションってのは割とあると思う。知り合いにマッサージしてもらってるときのされる側に近い。せっかくしてもらってるのにノーリアクションはあれかなーっと思い、あーだのうーだの気持ちいいだのと、リアクションすることでコミュニケーションを図る、みたいな。そう考えると受け固有のリアクションを女っぽさと規定しているのは、割とあれな面がある、っていうか、それが娼婦にはあるけど男娼にはイメージの差でもあるってことだよなっと。
ま、そんな感じでこんな感じ。どんな感じって感じだけどこんな感じ。まとめる気もなく、脳内にあるいくつかの話をごった煮で。