「悲しいことがあったら無理に笑わないでください」
この文章を読んだ時いくつかの事柄が頭に浮かぶ。
「笑わなければいけないバラエティの企画」 「感情労働」 「悲しいから泣くのではなく泣くから悲しくなる」 「自我の遅さ、後追いじゃないのかという、自我が決断したから行動するわけじゃなく行動したから自分はそう決断したのである自我が後付けで捏造してるんじゃないかという考え」
関連検索的に頭に浮かぶもののなかなかひとつに統合されない。
感情をごまかした時に平衡が崩れるのは、感情がどうあれ笑うことも泣くこともできるという事実に気付いてしまうと、普段自分が面白いから笑い悲しいから泣いているという幻想が壊れてしまう、ってーのと、自分がこう考えたからこういう行動したんじゃなく、こういう行動を決定した、無意識的な決断器官が先に行為に移した後にそれをモニタリングしている自我が瞬時に組み立て捏造し、自分が動かしたんだ、自分が決断したから自分の体はこうやって動いてるんだという誤認。
モニタに映した出されたボールはあなたが持っているコントローラーによって動きます、なるべくモニタの下半分にいかないようにコントローラーを動かしてください、って実際はなんにも関係なくただランダムに動き回るボールを映してるだけなのに、数分後に被験者にどうでしたかと聞くと、なかなか上手くできましたね、と答える人が大半で、これコントローラーとボールになんの関係もないじゃん?って気付く人はほとんどいないって話のように、たとえば生まれたときから勝手に動くロボットのパイロット室に放り込まれたこどもがいたとしたら、ロボットの行動と自分の考えとに勝手な因果関係を結びつけ、ロボットがこう動いた時には自分はこういうことを思っていた、ということはすなわち自分がこういうことを思ったからロボットはこう動いたんだな、と錯覚するんじゃないかなというあれ。
そこらへんが上手くひとつに結びつきそうなカンジがして、きゅぴーんってなったんだけど、なんだかいまいち上手いこといかず。あるいはただシンプルに、自分の感情を誤魔化してばかりいると、感情がこう思ってるのにそれをあえて無視しつづけていると、いつしか自分が本当にどう思っているのかわからなくなりますよ、っていう、くみ取り力的な、それだけの話かもしれない。や、でも、昨日読んでるときに、きゅぴーんってなったんだけどなあ。模倣しないと、そのように振る舞わないと、乖離しちゃうよ、みたいなカンジだったけかなあ。すでにおぼろ。たまご。