薄井毛利男の気高さ

神ならぬ人の身にできることは後悔しない選択ではなく、選択してから後悔しないこと、なんて以前書いたけど後者にはさらに特典がついてくる。主体性と気高さが。


ダイヤルQ2を使った新商売を思いついた灰原は新たに会社を作るのではなく赤字で休眠状態の薄井に話を持ちかける。機材の置き場と会社の名義を貸してくれたら上がりの1割をあげますからということで、1ヶ月後。無事に500万が振り込まれて1割の50万をもらった薄井は有頂天になり、4畳半の穴蔵から抜け出し、嫁さんと二人で一張羅を新調しフグ料理屋で灰原を接待する。しかし、事態は一変。NTTからの通知により最初の一ヶ月しか金は振り込まれず、それどころか、ちゃっちゃと逃げないと薄井どころか灰原たちの会社まで詐欺の共犯で捕まるということで、灰原は薄井に夜逃げしてくださいと伝えなければならないのだが、自分から持ちかけた話で、しかもこんだけ有頂天になっているため伝えづらい。だが、意を決して灰原は伝えようとする。そういうあらすじ。


社長に伝えなければならないことがあるんです、と灰原が冷や汗たらたらに切り出すと、べつにどんなことが起ころうと驚きはしませんから安心してくださいと意外にも落ち着いた様子の薄井。アンタいったいなんのことやの?と尋ねる嫁に、ええか花子、ワシらええ夢見させてもろたんや、灰原さんを恨むんやないで!と毅然と言い放つ。社長もうしわけありませんでした!じつはいますぐ夜逃げしていただきたいのです、という灰原に、エーッ!夜逃げ!と嫁は驚くが、おいおい花子、大声出すんやない、と薄井は落ち着いてそれを制し、まあ灰原はん1杯いきましょうと酒を勧めて、話し始める。
「本来なら約束が違うとゴネるヤツもいまっしゃろ。もっともだと思います。そやけどワシは今年で50歳になります。あんたに何も悪気があってしたことやないことぐらいわかる歳でっさかい。いやー、今日は家内ともどもいい夢を見させてもらいました。なんせこのワシが他人様を接待できるやなんて5年振りのことです。もちろん、目が覚めたら現実が待っていることも知っています。そやけど心配いりまへんで灰原はん!ワシも印刷会社倒産させてから夜逃げなんてもう慣れっこですよってに。そやからもうすこしだけ、もうすこしだけ、ここで夢を見させてやってください。帰ったらすぐ夜逃げの準備に取りかかりますよってに!なにも灰原さんが悪いんやおまへん。さあどうぞ楽にしてください。Q2の話を持ってきたんは、なるほど、灰原さんです。そやけどその話に乗る乗らんはワシが決めることです。決断したんはワシでっさかい、悪いのはワシなんです。灰原さんどうぞワシに1杯注いでやっておくんなさい」
すみませんでした……と謝りながら灰原は酒を注ぎ薄井はそれをごくりと飲み干す。
「うまい酒でっせ!灰原さん!どうぞ灰原さん!」
そう言って薄井は灰原のグラスに酒を注ぎ、ふたりは見つめ合う。ふたりとも目に涙を浮かべながら。薄井は微笑みながら。