キリスト教の話とかによく出てくる意味での愛。よくわからんカッコ付きの概念としての「愛」ではなく、身近な理解できるレベルでの愛とはどんなんだろうと考える。
するとしずかちゃんのパパの言葉が頭に浮かぶ。

のび太くんを選んだ。きみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い。人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。かれなら、まちがいなくきみをしあわせにしてくれるとぼくは信じているよ。

これをベースに考えてみると、たとえば、自転車でふたり乗りしてるイチャらぶ楽しそうな高校生を見てそのしあわせを祝福できるか否か、みたいなことかなーとか思う。遠くの人の愛するのはたやすい。毛穴の見えてる人を愛するのはむずかしい。や、毛穴がきたないとかそーゆー話ではなく。そのくらいの距離にいる人はむずかしい。見たこともないアフリカの人の幸せをねがうのはたやすいが、公園で暮らしてるホームレスを愛することはむずかしい。ホームレスがどうこうではなく、身近な人がいい暮らしをしたり、しあわせになったりするのを、妬まずに、祝福することがむずかしいように。
しかし、まあ、その先には本当に、なにかがありそうな気はする。花っていうのは、わーお花さんいいにおい、なんて具合に純粋でキレイなイメージで語られるけど、あんなもんフェロモンまき散らしてるメスのような、おやおやもうこんなにいやらしいにおいさせちゃって的な、淫靡な意味でいいにおいってことであるのだが、それは確かに、というよりはだからこそ、とてもとてもいいにおいがするように、愛の先にもあるのも、そんな聖なる聖なる清いなにかではなく、淫靡さ故にとてもいいにおいのする花のような、ずいぶんとイッちゃった、ラリったような狂ったような、そんななにかがある気はする。普通は憎しみが先に立つようなそんな状況でも愛せるということは、聖人というよりはネジがはずれてるということではあるのだが*1、だからこそ、全方位的な幸福感が、全能感が、得られるのかなっと。

*1:そういえばドラえもんもねじ外れてんだっけか