諸法無我

どうしてあいつだけが幸せに、どうして俺だけがこんな目に、どうして世界はこんな風にできてるんだ、いったいぜんたいどーゆーことなの?ってことで諸法無我。理由とかねーから。誰かの意志だとか、むかし悪いことしたからだとか、宇宙からの電波だとか、神のご意志だとか、そういった諸々の理由なんてねーから。背景なんて何もなくただ単純に現象としてそうあるだけだから。
すっげー当たり前のことなんだけど、すっげー当たり前に忘れる。諸行無常と一緒で、り、りろんはしってる、って感じなんだけど、いざそうなってみると、くそ、どうしてこんなことに、いったい何かわるいことでもしたのか、とか、こんな世界は間違っているとか、そんな風にまるで背景に何かしらの理由があるかのように考えてしまう。
こういったオートフォーカスが、木や魚やさまざまなものに顔を見出してしまうように、普段は役に立ってるヒューリスティックな機能が裏目に出ることが、不幸の原因というか、苦の原因だっつーことなんだろうなあ。過去とか未来とかねーから。単純にいまこの現在しかないし、その現在もただの現象として生起してるだけなんだから、理由なんて一切合切ねーから、っと、リアルに、純粋にこの世界を観て、感じることができたならば、苦なんてものは起こりえないっつーさ。
あーゆーのは過去とか未来とか理由とかそこらへんにこだわるからであって、そこらへんと現在を結びつけるからであって、ただ単純に現在のみを、なんの理由や絡みなんかもなく、単純に生起してる現象として観るのならばそういった苦は生じえない。たとえバッドな状況だったとしても、あー超バッドっすねー、ってだけで終わる。はいはいバッドバッド。
問題はそのように観ずることは可能か否か。音楽が、実はその一瞬にしか存在しないにもかかわらず、聞き始めたときの展開や少し前に聞いた音の記憶やこれからの展開の予想などから成り立っているように、ナチュラルに備わっているオートフォーカス機能を訓練によってマニュアルにすることはできるのか否か。や、まあ、できるのはできるんだろう。できるんだろうけど、それはどのくらいの訓練によって可能となるのか。そーゆー話よね。あとは弊害か。メリットだけじゃなかろうもん、っつー。
ま、いずれにしろ、今の自分にゃ諸法無我が必要。とりあえずの処方として。むしろ苦を味わい尽くすってのもありなんだろうけど、そんな気力はちょっと湧かない。はいはいバッドバッド、ではなく、グッドもバッドも存分に味わいつくしてこその人生ルート。マンガの主人公にありがちなそんなルートは、憧れはすれど、ちょっちきつい。併存できるならば、それがいいんだけどなあ。くっそーバッド、よっしゃーグッド。一期一会で一喜一憂。