座・視点・場所

自らの行動を常に眺めている座というか視点というか場所というか*1。過去や現在の宗教を信仰する人にとっては神がいる、過去や現在の日本人にとっては世間がある、他にもマリア様が見てたりロリーな女王様がいたりする、そんな座というか視点というか場所の話。
神がいるとほとんどブレない。解釈で変わったりもするのかもしれないけど、明文化してる宗教ならばそれ程はブレない*2。でも、古いから現実とはズレる。世間があると現実とはズレない。現実の様々な人たちの総意が規範となるんだから。でも、総意だからブレまくる。短いスパンで右へ左へブレまくったりする。さて、そこに、自分自身を置くとどうなるか。現実に生きてるのだからズレないし、ブレないかどうかは人と周りによるだろうけど、ブレたとしても、他人の意見じゃ納得いかなくとも、自分の意見なんだから納得はいく。俺がルールでルールが俺で。そんな素敵な俺ライフ。
でもまあ、欠点はあって、自分が規範であることに耐えきれないかもしれない。神や世間ならば、寄れる大樹が、巻いてくれる長いものがあるから、寄ったり巻かれたりしてりゃいいんだけど、新参者で自分ひとりぼっちな俺ルールはそんなものや保証感なんてものがないから、自信を喪失しやすく保ちがたい。だから、世界は私のためにある的な絶対的な自信がないと厳しいかもしれない。だけど、そんなん素敵やんってことで、下の話の最後の行はそんな意味も含めて、自分が好ましいと思えることを規範にできるように、自身を規範にしても保つことができるように、そんな風になりたいな、と。まあ、そんな話。

*1:「どんなにバレないようにしても全部まるっとお見通しなのはだーれだ。神様?いいや、自分。」みたいに、誰にもバレない悪事を行ったとして良心がそれを咎めたりするように、自分の行いは常に眺められている。

*2:知らないし響き重視だから別にブレててもよかったり。