意味ってのは

馬の目の前に釣り下げられた人参みたいなもんじゃないのかな。意味の対をベタに強度とし、その瞬間瞬間での充足とする。まあ食ったり遊んだりとか。確かにその瞬間瞬間は充足するけれども、そうしているときしか充足しないから終わった後は空しくなるし、慣れができて次第に充足度合いは減っていく。だから、空しさを忘れるために、同程度の快楽を求めるために、刺激を次第に強くする。退廃ってのはそんな感じだと思うんだけど、じゃあ意味はどうなのよっつったら、理想への過程を全て意味あるものとして意味づける。
例えば読書で言うと、強度はその日読みたい娯楽小説を読み楽しむことで、意味は別に楽しくも何ともないけれど将来役に立つ本を読むことと似ている。それが役立つだろう将来、という理想のために今日を費やし、費やした今日は意味あるものとして、満足のうちに消費する。自己の尊い理想を人生で体現するってのは長期的で壮大なオナニーであるのと似たように、理想の将来のために必要であるとして意味づけられる日々は、強度的な観点からすれば全くつまらない日々ではあるが、意味づけられているために、それによって叶えられる理想のために、それに従事している日々は、強度とは違った方法ではあるが同じように充足している。一言で言えば、強度は現在に、意味は未来に生きている。
でも実は理想が理想としていたものと違ってたり、途中で継続が不可能になれば無駄になる。10年後のために面白くもない本を読んでいても、10年後に叶えた理想がつまらないものだったり、そうでなくとも9年目に余命半年ってことになったら、意味は失われ、それくらいなら毎日面白おかしい本を読んでいた方が良かったとなるように。そこでまた最初に戻ったりするわけで。でもまあ、理想のメッキが剥がれるまでは意味づけられた充実した日々を送ることができる。
どっちがいいっていうよりは、まあ趣味の問題だろうけど、ぬるめに日々を楽しむのがベタっちゃベタかな。覚醒剤やるよりは甘い物でも食ってる方が。あるいはハイブリッドな感じに、日々楽しみながらも、達成できる程度の軽い理想を設定するとか。足下で草を食うか、いつか食べられるかもしれない目の前の人参って理想を追いかける空気を食らうか。って、今更だけど、微妙なたとえだよね。たとえが上手くなりたいなー。本質を掴むのが下手なのか、それをもとに具体例を検索するのが下手なのかは知らんけど。