昨日の話に

わからないものは怖いってのがあったけど、そもそも何故わからないものは怖いのか?
例えば人間味溢れる子Aと、何を考えてるかその行動原理が皆目見当がつかない子Bがいたとする。人はAに優しくし、Bに辛く当たるだろう。何故なら何を考えているのかわからないBの存在は不気味であり恐怖であるのだから。一方、Aは何を考えているのかがわかる、優しい人間味溢れる子である、私たちの仲間であるから親切にするのは当然じゃないかと。そんな解釈が一般的だとは思うんだけど、本当にそうだろうか。その解釈ではわからない=怖いとなっていて、何故わからないのが怖いのかという疑問の答えにはなっていない。
では、こういった解釈はどうだろうか。Bは隠している欺罔を暴く存在であるからと。わからないのが怖い。何故?わかっているAは怖くない。本当に?本当にAが考えていることがわかっているの?Bと同じようにわからない存在であるにもかかわらず、わかっていると安心しているつもりになっているだけじゃないの?そしてBの存在は本質的にはAも皆もBと変わらないことを、わからない存在であるのに、それをわかったつもりになって安心している現状を、暴いてしまうから怖いんじゃないの?っと、そんな解釈は。
人を世界と変えても一緒で、理解できない目の前の現実を自分にわかる理屈で咀嚼し取り込もうとするのは、わからないものは怖いという畏れであるけど、何故わからないものが怖いと言ったら、わからない存在が自分のわかった世界を脅かすから。わかった安心できる世界が、本質的にはわからないそれと同じであるならば、わかったつもりになっているだけの砂の城であることが、暴かれてしまうから。っと、そんな解釈は。まあ、単なる思いつき。でも、あれだよね。基本的に暴くってアイデアが好きだよね、自分。何となく不気味だったり恐ろしかったりするものは自分の中の何らかを暴いてしまう存在だから、それを遠ざけようと無意識さんが、そう認識している、的な。これがちょっと陰謀論と似ているように思えるのは、根本的に向こう側に意味を求めるこちら側の運動であるところらへんなのかな。まあ、無意識さんの場合は、向こうっていうか内部ではあるんだけれど。