自転車乗りながら考えた

そもそもどうして、ワシは痛くないのに、他者の痛みを感じてしまうのだろうか。
以前に書いた視線の話を例に出す。

id:snyd:20071130
* どんな侮蔑や軽蔑の視線を投げかけられたところで、そいつらは魔法使いじゃないんだから石にされることも命を奪われることもない。命を失うことになるとするならば、それは自分で自分を殺す場合であって、視線自体にそんな力はない。
* どのように見ようがそれは相手の自由。現に相手にはそのように見えているんだから。勿論見られたいようにする努力、例えばオサレに見られたいからお洒落するなど、は有効ではあるけれど、結局の所どのように見るかは相手の自由であって、自分が干渉できる領分ではない。

これも下の話と似てて他者を混同してしまっている。下の話は他者の痛みを自分の痛みに、上の話は他者の視線を自分の痛みに。何故そうしたことが起きるのかというと、どんな侮蔑の視線を向けられ自殺したところで、侮蔑の視線を投げかけた相手が魔法使いじゃない限り、その人を殺したのは侮蔑の視線自体じゃなくその人自身であるように、結局の所そこなんじゃないかなっと。
スタンドを攻撃できるのはスタンドだけという構図に近い。ただ主従は逆転していて、自我とされるものは、この私というものは、自分のスタンド。だから現実に身体があってそれのスタンドとして発動しているのがこの私自身。そう考えた場合他者というのは現実にある他者の身体になるから、他者は私を攻撃できないし、他者がどんなに苦しもうが痛くも痒くもない。でも私がひとたび他者のスタンドを想像し創造してしまったら、他者のスタンドを他者として認識してまったら、どうなるか。その視線は自分に突き刺さり、その痛みは我が痛みのように感じられる、自らの痛みを他者に呪いのように転移させる能力を持つスタンドみたいなものとなる*1
つまりはそういう感じで現実にある身体としての他者ではなく、自分が想像してる世界にスタンドのように想像上の他者を創造してるから、なんじゃないかなっと。そもそも身体としての他者を、他者自身を認識することなんて不可能だって気もするけど、問題はそこじゃない。ワシは痛くないって人も、想像上の他者のスタンドを創造し認識していたとしても、線引きをしっかりとしているから、彼は他者であってワシは痛くないと線引きをしているから、痛くないし痛まない。まあ、結局は線引きなのかな?そもそもの認識自体が違うって方がわかりやすくていいんだけど、まあ他者自身を見るのは不可能な気がするしなあ。

*1:そんな感じのがいた気がするけど思い出せない。最弱とかだっけ?ていうかそもそも一回しか通読してないから有名所以外思い出せない。