この前の話

内面を理由として行動という結果があるのではなく、行動という結果が先にあり内面がその行動に至るような理由を捏造しているとしたら、恋をしたからその人の体が欲しくなるのではなく、その人の体を欲しいという結果が先にあり理由もなく人の体を欲す状態を嫌い自分はその人に恋をしているのであって恋をしているから体が欲しくなったのだと捏造しているのだとしたら、どうなのか。
行動が先にあってその後、無意識に高速に、内面をその行動と関連づけているとしたら、あたかも内面の理由があって先にあって行動が後に行われたかのように錯覚させているとしたら、どうなのか。
もしそうならば、私が私だと思っている内面は、実のところ私ではなく、私という身体の行動を一番近くで見ている友達であり、私という身体の行動を自分の意思によるものだと勘違いしている可愛いやつとなりうる。飛んでる石に意思があるならば自分の意思で飛んでいると思うだろうって言葉のように、搭乗型ロボットの中で物心がついたパイロットは自分の意思によってロボットが動いているのだと思うだろう。まさしくそのパイロットのように、ロボットの行動に至る理由を内面が捏造し、その理由によって私が行動を起こしたのだと錯覚しているということに。
これは否定できない。たとえば合理的に考えれば死にかけるくらいの断食を身体が好きこのんで選択し行動するとは思えないが、決してありえないとは言えないように、一見内面が先に立っていると思える行動も、実は行動が先んじていてそれを内面が後追いしているだけなのではと考えたら、それを否定することはできない。もしかしたら私に見えている世界も、私が考えていることも、デーモンによる幻覚なのではないだろうかっていう懐疑と一緒で。
と、まあ、そんなくだらない妄想。もし仮に関係なかっても妄想はできるからいいね。疑っている云々とは違って内面ありきだしな。実際には肯定しかない欲望の抑制機構として生まれたって考えをまだ支持してるから、ある程度抑制能力はあるけれども、ダブスタに現れるように、まず欲望による結論ありきの提灯新聞的なものに成り下がっている面はあると思う。だからこそ40日間断食して欲望という名のデーモンに遭遇することにより、腹減ったこんな馬鹿なことはやめようぜとか苦しいことやめて楽しい快楽求めまくろうぜとか、私の考えのどれが内面による考えで、どれが欲望という名のデーモンの誘惑なのかを見極めるって感じなんだろうなっとは思う。