また常識がわからない

一般的に、自分を自分と呼ぶ場合、自我を自分と呼んでいるのか、身体としての自分を自分と呼んでいるのか。前に、私が痛いと感じているとき、痛いと言っている私は痛くない。痛覚神経が刺激されたことを受容して痛いのがわかったから痛いと言ってるだけで、私自身は痛くも痒くもない場合、痛いのは一体誰かって話があったけど、今日も似たようなことがあった。
今日いつも通る道を通ろうとしたら工事中だったので現場の30M手前に立ってる工事のおじさんに通れますかって聞いたらちょっと着いてきてなっと言われたので着いていった。トラックが止まってる近くまで行くと自転車が通れない道幅だったのでおじさんは工事している人にちょっと車どけてくれん?っと頼んでくれ、工事してた人も車をどけてくれて通れるようになったので、ありがとうございますと体育会系な言い方で、あざーすをもう少し明瞭に言ったような感じで、礼をした後すいすいすーいと自転車に乗って数秒後にふと思う。はぁ、疲れたな。
人間的に非常にあれなので、こんな何でもないことにも疲労しちゃうわけだけど、それは置いといて、一体疲れたのは誰かということ。おじさん達に話し、礼をしたとき私はそこにいなかった。何も考えないアドリブトークみたいなもんで、私が何かを言おうとして言ったわけではなく、条件反射的な受け答えであったので私はそこにいなかった。そしてその受け答えから数秒後に私が疲れたなと思わず呟いた。さて、疲れたのは一体誰なのか。
痛覚の話とこれを併せて考えるとモニタリング機能的なもんじゃないのかなって思えてくる。足に痛覚あり見知らぬ人との受け答えによってストレス性物質の分泌ありって風に体内の様々な情報をモニタリングする機関。そう考えたとき痛いのも、受け答えで疲れたのも当然身体としての私だし、そもそも自分と呼ぶ対象も自我としての私じゃなく、身体としての私になってくるんじゃないのかなっと、そんなことを疲れたなっと呟いた後に思いながらふらふらと自転車を漕いでた。先に結論があるにもかかわらず理由を後から捏造し、あたかも自我がその理由に基づいて結論を出したかのように錯覚させるっていう話もあわせたら本当にあれじゃねえかなっと。
でもまあ、結論としてはあれか。そもそも常識的な一般人は自我としての自分とか身体としての自分とかになんて分裂しないって感じだろうな。最近やばいな、考えが非常にあれ。偏執的に分裂気味な考えばっかりしてる。どっちやねんって感じだけどさ。