断食

前書いたみたいに禁欲することによって自らの心に溢れる考えのうち、どれが悪魔の囁きでどれが己が心の声なのか、たとえば死んでは真理を悟れないから食料を食べることこそが真理に近づくための道ですぞって感じの言葉は理屈っぽく隠蔽されてはいるが食欲によってもたらされた声であるように、何が欲望によってもたらされた声なのか、何がそれらの欲望を背後に持たない己の声なのかを見極めるための行為なのかなって思ってたけど、少なくとも昔のインドではそうじゃなかったらしい。
人間には心の力と体の力ってのがあって、断食して体の力を弱めることで心の力を強めるとか何とか。何じゃそりゃそりゃ。おじさんちょっとガッカリだ。心の力を強めたければ断食なんてするんじゃなく、暑くも寒くもなく、満腹でも空腹でもなく、快適でも不快でもない状態を保てば自然と心の力は強くなる。具体的に言うと軽い幻覚が見えるくらいに強くなる。もう半端じゃない観念世界。セカイ系なんて目じゃないね。社会すっ飛ばして世界と繋がるどころか目の前の部屋のみが世界ってくらいに観念世界。
右脳は感覚器官からの情報を処理し、左脳はその情報をコラージュするって話で言っても、そうなる。断食なんてして刺激与えまくっちゃ右脳は割とフル活動。まあ、空腹による脳内麻薬で幻覚見たいならそれでいいんだろうけど、体の力を弱めるって目的ならば、それは右脳の情報処理量を減らすってことなんだから、適当じゃない。暑くも寒くもなく、満腹でも空腹でもなく、快適でも不快でもない、出来うる限り普通で適度で当たり前な状態を保つことで感覚器官の刺激を抑えて右脳の情報処理量を相対的に低下させる方がいいんじゃないかなっと。


人間は感覚を遮断した環境下に置くと数日で発狂するって話も上の理屈なら一応は説明がつくのかな?感覚を遮断し右脳の情報処理量を極限までに低下させることで、相対的に左脳の地位が向上し観念が世界へと直結するが故に幻覚だらけの、ようこそこの素晴らしき観念空間へ、って感じで。認識ってのは一体どうなってんだろうね。世界を見るとき無意識に二重化、物の世界をベースに記号の世界を構築してるけど、上の例みたいに感覚を遮断し物の世界を知覚できなくなると記号の世界が、観念の世界がすなわち世界になっちゃって感じでいいのかな。それより普段はどうなんだろ。記号が先で物を後に見ているのか、それとも記号ってのは本当に記号的なものであるから、例えば今目の前にはビンが…って違うか。目の前にビンっぽい物体があるのを見て脳内でそのイメージに類似した記号を検索してそれから初めて目の前にある物体がビンであるってことになるのか。いや、でも、その理屈だと感覚遮断しても観念世界が発動しない気もするな。例えば深夜、普通に楽しくゲラゲラだらだらしてたのに、突然背後からの物音がしていろいろな想像をして怖くなっちゃのは、その物音を発する原因をいろいろ検索して、誰もいないところから音がするのだから姿の見えない幽霊であるとか巧妙なストーカーであるとか云々、びびっちゃうからだってことだとしたら、音も光も皮膚感覚すらもない遮断空間じゃトリガーになるものがないんだから。それともあれか?沖縄には何もないがあるってのみたいに、今までは存在していた世界自体がなくなっちゃったことがトリガーになってって感じなのか?どうなんだろ。ていうか、どんな具合に発狂すんのか、そもそも本当に発狂すんのかって知らないからな。いや、まあ、耐えられなさそうではあるけれど。まあ、そんな感じでこんな感じ。話は最初の三段落。なるべく感覚器官に刺激を与えないようにすると観念的な世界が見れるからそっちのが理に適ってるんじゃねって話。一行で済んだね、うん。