幸せそうな人を見て昨日思ったことは

結局のところ絵の話と一緒だよなってこと。絵は才能だ、あいつらは才能があるから違うんだ。そんなことを言う人がいる。確かに努力じゃ辿り着けない境地はあるし、そんな才能の壁は高く高く聳え立っている。
でも、だからといって、何の努力もなしに手に入れたものではない。毎日数時間。1ヶ月で百数時間。1年で千数百時間。10年で一万数千時間。そんな途方もない時間を絵に費やしてきた人を、それだけの努力をしてない人が、才能の一言で片付けるのは*1何だかなあって気がする。才能だよの一言が言えるのはそれと同じ努力を払った人だけじゃないかなって。
そんなことを思ったきっかけは不細工な男が可愛い彼女と歩いているのを見たとき。そのカップルが心をざわめかせる理由はただ一つ。全ての原因をイケメンに押しつける欺罔を暴くから。絵の才能の話のようにたとえ顔が良かろうが、何の努力すらしてない自分が所詮顔だろだなんて言うのは筋違い。努力をしていればその不細工な彼のようなこともありえたかもしれないのに。いやありえなかったとしても、所詮何の努力すらしてない自分が言えることではないわけだ。
いや、まあ、筋金入りの人からしたら、例えば女がいくら野球の練習しても甲子園に出られないのと一緒、って話になるかもしれないけど、もし仮にそうだとしても、得られた人の努力自体は尊いものであるのは変わらないと思うから、やっぱり何の努力すらしてない自分は口を噤みたい。
と、まあ、そんなことを思った次の日のあの掲示板の書き込み。悲しいな。ま、被害者の人ほどではないっちゃないんだろうけど。

*1:左之助に対する安慈みたいなもん