失敗

必要なのは自分より失敗した人間と比べて悦に入ることでも、相対的にハードルを下げることでも、そもそも基準自体を変えてしまうこと、例えば人間の価値は○○以外のところにあるんだ等、ではなく失敗を認めて受け入れること。
そうしない限り脅迫的に、強迫的に、自らの失敗を隠蔽しようとして、上の例のような価値観を導入しようと働きかけてくる。それはまるで亡霊のように、失敗を認めて受け入れるまで、執拗に付きまとう。
何故かというと「悪いこと」の話のように、失敗とされることは「失敗とされること」であるが故に失敗なのだから。だからその「失敗とされること」の状態に陥った後から、自分より下の人間を見たり、違う価値観を導入しようとしたところで無駄である。すでにそれを「失敗とされること」として学び受け入れた自分が、その失敗をしてしまった*1ことを、目撃しているのだから。
誰にも目撃もされず、何の証拠も残さず完全犯罪を成し遂げたとしても、それを目撃し、知っている人物が存在する。誰か。それは自分である。自分にだけは隠し事ができない。だから自分は自分に対して隠蔽しようと試みる。自分より失敗した人間があんなにいるんだから自分は失敗していないんだ、そもそも人間の価値は○○以外のところにあるんだから自分は失敗していないんだと、失敗を知っているが故に、失敗を隠蔽しようとする。語弊は出るかもしれないけど、簡単に言えば意識の自分が失敗に気付かないように、傷つかないように、無意識の自分はハードルを下げたり価値観の基準を変えたりして、失敗を隠蔽しようとする。
しかし自分は誰よりも自分の失敗に気付いている。一番近くで目撃しているのだから。故に自分の失敗を認めて受け入れない限りは亡霊のように執拗に隠蔽しようと付きまとう。自分に気付かれないように。自分がそれを知っていることに気付かないようにと、気付かれるまで亡霊は隠蔽し続ける。
と、まあ、そんな話。基本的に認めない限り消えない亡霊は暴走してしまいがち。いよいよ失敗が隠蔽しきれなくなってくると、社会的な立場が隠蔽できないくらい「失敗とされること」に近づいたら*2、失敗自体をなかったことにしようとして、失敗という現実を自分が引き受けることを避けようと、自分という存在を抹消しようとしたり、あるいはゲーム板を引っ繰り返すような、失敗を隠蔽するために自らが敢えて社会的に許されない行動に走ったりなどの、過激な手段に出たりする。敢えてそうすることで失敗を隠蔽しようとする。自らがゲームを放棄したのであって、決して自分がゲームに敗北したわけではないと。
だからまあ、きつくても認めた方がいいよねっと。はいそうですかって認められるようなら誰も苦労なんてしないけどさ、でも隠蔽する力学が働いてることを意識するだけでも、大分違う気がしないでもない。

*1:その状態に陥ったり行為をしてしまったり等

*2:例えば中年で非正規雇用で6畳一間のコンビニ弁当などのゴミが溢れる部屋で日曜を過ごすとか、ホームレスになったりとかとか。