天国っつっても

善人ばかりってわけじゃなく、決められた掟を特に疑うことなく従ってだけのやつが多いから、天国に逗留した後にある来世の選択を適当に決めちゃって、割とあれな感じになる奴が多いとのこと。なるほど、昔の人はいいことを言う。疑うことなく信じちゃうってのが多いよな、本当に。
まあ、だからこそ、道徳やら宗教やらが重要になるんだろうな。疑うやつが少ないってことは、善いことを掟にしとけば疑わずにそれを遂行するやつが、善とは何かなんて考えなくてもただ掟を守ってただけで天国に行けたさっきみたいな人が、数多く輩出されるってことなんだから。


にしても、あれだ。考えたことすらない癖に自明だと信じてるやつがあれすぎる。貧乳に向かって何もないと言える神経が哀れになる。信念を持った巨乳好きなんかじゃなく、巨乳には興奮するってルールに当て嵌めて興奮してるに過ぎないから、多分真実そこに何にも感じられないんだろう。
何にも感じず、考えず、疑わず、男は巨乳に興奮するというただそれだけに、機械的に興奮してるだけだから、考えた末の巨乳好きのようなこだわりは微塵もなく(巨乳は全部巨乳だろ?と言わんばかりに)、貧乳を見ては何もないだろ?などと言ってのけ、それが真理であるとばかりに疑いもしない。呆れるを通り越して哀れみすら覚えるのは道理だろう。
理解できないのが哀れなわけじゃない。理解しようとすらしないその態度こそが哀れなわけだ。理解しようという態度さえあればいつの日かその属性を理解できる日も来るだろう。自らの頭で考え、心で感じようとするのだから。しかし、理解しようとすらしない限り、それを理解できる日は来ない。疑いもせずに、それに興奮するというルールがないからと、それに興奮する相手が異常なのだと、頭ごなしに否定しているのだから。
だから、以前に書いたショタとの邂逅のように、強烈な体験をきっかけに、その常識とのズレを修正しようと、常識を疑ったときに初めて理解は訪れる。あれ?男の子に萌えるなんておかしいけど実際に胸はこんなにも高鳴っている?自分が異常なのか?いや常識が間違っているんじゃないだろうか。そんな感じに訪れる。
まあ、そんな感じでこんな感じ。従うばかりは阿呆らしいから、自分の好みに再構築していった方がよくね、ってことで。