何が嫌いかって

無自覚に受け入れてるだけの常識を絶対の真理だと信じて疑わない人が嫌い。
例えば何故人を殺してはいけないのかっていうベタな問いに対して、そんな当たり前のこともわからないガキは殴ってわからせればいいんだ、と言ってのけるような人。なるほど。では、人を殺してもいいという私の国では当たり前の考えを受け入れてくださるまで、暴力を振るい続けさせて頂いてもよろしいですね、ってことになっても文句を言わないってんならまだしも。だって、やってることは、それと一緒で、そうであるとすることを、暴力で受け入れさせてるだけなんだから、そういった暴力による説得に反対だと思うのならば、最初に述べたような当たり前のことだから殴ってでもわからせればいいんだといったことは、なすべきではない*1


ではどうすればいいのか。例えば一つの意見がある。別に殺してはいけない理由はないけど、人が集団で生活していく以上、原理的に人を殺してはいけない理由がなくとも、その集団の利益を守り、維持していく上で、人を殺すという行為を規制しなくてはならない。だから、別に殺してはいけない理由はないけれど、現在の社会でこれからも暮らしていくつもりがあるのならば、その行為は集団の総意たる警察等の暴力によって制裁されるから、しない方がいいよという意見。
これが真理かというとそうではないが、正解ではある。なぜなら、当たり前とされることに対して疑問を持ち、その理由を自分なりに考えた結果である意見だから。大事なのは真理に至ることではなく、当たり前とされていることを疑い自らの考えによって意見を出すこと。その前提があれば、たとえ提出した意見が真理どころか、てんで的外れであろうと、そこは違うんじゃない?ここはこうなんじゃない?という反対意見が出され、そしてそれを受け入れることができるから。
しかし、当たり前のことを疑わずに当たり前だからと当たり前のように信じる人には、そういった意見の交換は受け入れられることはない。だって彼らにとってそれは当たり前なんだから、疑う方がどうかしていると、当たり前のように思うだけである。たとえその当たり前がどんなに無根拠で、提出された反対意見がどんなに正当だとしてもだ。彼らは論理を根拠としているわけではなく、当たり前とされているかどうかを根拠にしているんだから。


確かに疑い自分の考えを提出する人にも意見の相違はある。彼らはこうだと述べるが、私にはこう思うが故に、私はこうだと考える、といったように。だが、意見の溝は埋まらなくとも、理解することはできるかもしれない。彼はこう感じて、こう思うが故に、このように考えるんだな、と筋道が提出されているんだから、たとえ意見が平行線を辿ったとしても、彼はそういった考えを持つ人間なんだなと理解できる可能性はあるし、話し合いの余地は存在する。しかし、当たり前を疑わずに当たり前のように思う人には、そういったものすら存在しない。そう思う根拠は特別な理由などない当たり前だからということのみだし、話し合おうにも当たり前だからの一言で終わってしまう。理解と対話が閉ざされている。
もちろん、疑う人にしても、世の中の全ての事柄について疑えているわけじゃない。当たり前だと受け入れてる部分が多くある。でも、疑い考えることを知っている人は、対話することができる。誰かがこれってもしかして違うんじゃない?と表明した疑念を自らも疑い考えることができる。理解と対話が閉ざされている、当たり前だと思う人ならば、当たり前に反するから違うと握りつぶしてしまうような疑念でも。
長くなったけど、自分はそういった理由で、無自覚に受け入れてるだけの常識を絶対の真理だと信じて疑わない人が嫌い。

*1:後で述べるように、そうでなくとも当たり前というのは、暴力的なんだから。