物語

以前世界が物語的に動いてるのを見て不思議がってた人がいたと思うけど、今日読んだ本に受け入れ難い現実を受け入れられるように変容させるために物語があるって書いてあるのを見て、なるほどなーっと思った。
何言ってんだい、受け入れ難いんなら見て見ぬ振りして忘れちまえばいいじゃねえか、って気もするけど、いくら忘れようと心がけたところで、世界の誰もが見てなくてもそいつだけは必ず見てるってやつが、まあ要は自分自身が見てしまってるから、忘れようと思って忘れることはできない。全力で見て見ぬ振りをして忘れようと頑張ったところで、自分自身はそれを見てしまってるから隠し切ることはできず、そして見て見ぬ振りをしてる自分もそれを承知しているから、隠して見て見ぬ振りをしているという負い目があるから、その罪の意識は消えることなく、強迫的に責め苛まれ、何度も思い出させようと迫ってくる。
だから見て見ぬ振りをしても強迫的に責められて忘れることは難しいんだけど、それを変容させて受け入れられる形にして受容してしまえば、強迫的なそれらはなくなり、消化することができる。受け入れられるように変容させたとは言え、それはある程度の事実に基づいているのだから、目撃している自分自身に咎められることはない。あれそれこういった事実があったのを、物語によって受け入れやすい形に変容したとは言え、自分はそれらの事実を受け入れたんだから、自分の行動を常に目撃している所の自分に咎められる謂われはないし、何の負い目もないんだから。
そう考えた場合、世界が物語的に動いてるのも、世界中に同様の構造を持った物語が散見されるのも、わからないでもない。人間の性質とも言える形で備わっている物語という説明体系が、外の現実に反映された結果、って風に考えればさ。ていうか、どうでもいいけど頭が痛い。文が冗長どころか重複が多い気がするけどそれもよくわからない。でも書けるんだから頭全然使ってないんだろうな書くときは。まあ頭の中にできあがってるのをタイプしてるだけみたいなもんだから当たり前と言えば当たり前か。