正義

今まで考えたこともなかったけど言われてみると確かに面白い。

今までの自分の考え方に一番近いのは功利主義的な立場、より多くの人の利益になるべき選択が正義という考え方*1、だけど、じゃあ、末期の心臓患者、膵臓患者、肝臓患者の3人と健常者が1人いた場合、そして健常者を殺して移植したら3人が助かると仮定した場合、健常者を助けたら1-3で-2人だけど、健常を殺せば-1+3で+2になるんだから、功利的に考えるならば健常者を殺すべきですよね?って言われると、うーんっと唸っちゃう。

いや、別にそれが悪いからどうこうって意味じゃなく、私は私の信念で功利的に判断するから答えは勿論Yesですと言えるのならばいいんだけど、大局的な場合は曖昧に功利的な選択をするのに、こういったより過激な設定の場合に迷ってしまうってのが、普段いかに物を考えてないかっつーことだなって感じが単純に嫌って話。

そうやって考えた場合、功利主義的な考えってのは、後からの結果によって正義が変わってしまう。シェイクスピアが『相手の心が変わるにつれて変わるような、相手の心が離れてゆくに従って離れてゆくような、――そんな愛は愛ではない。』と言ったように、三千院ナギが、ハヤテという男を女だと思って一目惚れしたが実はハヤテが男だったと知り逆恨みに復讐しようとした男に対して『今度、何かの拍子にハヤテが女になってみろ!!そしたらまた手のヒラを返して、お前はハヤテの耳元で愛を囁くのか!?』とそれを薄っぺらな愛であると説教したように、結果によって左右されてしまう。

さっきの例で言うならば健常者を殺す行為自体は正義とは言えないが、それが3人を救うのならば正義であると位置づけられるように。いや、功利的って言葉からして、当たり前すぎる程に当たり前の話なんだけど、それすらも考えたことがなかったのが、浅はかだったなあっと。そんなの真善美みたいなもんでどうのこうのとか*2、正義が勝つのではなく勝ったものが正義であるのは正史を書く権利を得るからであるように功利的な判断以外にどうのこうのとかじゃなく、そもそも考えたことすらなかったのが、非常にあれであったな、っていう話。


これからは暇なときにでも考えよう。暇だしもやもやするし面白そうだし、それにいざという時のためにも。ま、ないとは思うけど、そういった件の当事者となったときに、何も考えてないままだとダメージでかいし。
例えば事故で人を殺すのが異様に怖くてしょうがないってのもそういう話で、自分としては別に殺すこと自体を忌避してるわけじゃあない。怨恨による殺人とか、戦争で命令されての殺人は、全くの抵抗がないってわけじゃないけど、別にいっかなって程度の認識であって怖くてしょうがないってことはない。
じゃあ何が怖いのかっていうと覚悟をしていない時に、平々凡々と一般的な常識的な市民として暮らしてる時に、殺すつもりが全くない相手を殺してしまうことがとても怖い。普段の自分が事故による殺人者に対して認識しているイメージを引き受けねばならないから。たまにドキュメントとかで見る何十年経っても線香を上げにきて、罪の意識に苛まれ続け、幸せになってはいけないと呪われ、しかし死ぬことも赦されることも許されず、生涯苦しみ続け償い続けねばならないという、模範的な加害者のそれを*3
なぜなら被害者を殺してしまった時の自分は、自らの意思で殺人して後悔しなかったり悪びれたりする殺人者ではなく、事故の加害者に対してそういったイメージを持っている一般的で常識的な一市民としての自分なんだから。自分はそれを知っているから、そういったイメージを持っていて、そして自分はそう考えるときに人を殺してしまったとわかっているから、それを引き受けなければならないし、そこから逃れることができず、その模範的な加害者としての自分を、これから先、模範的な加害者像がそうであるように、一生背負っていかねばらなくなるから、それが怖くてしょうがない。
功利的云々って話もこれと一緒で、何も考えていない時に当事者となって行動してしまったら、犠牲を出してしまったら、その後からいくら納得のいく答えを得たとしても、苦しみに苛まれることになると思う。もしも行動した時の自分が、何も知らずに何となく選びそしてその行為に得体の知れない罪悪感を感じるような、一般的な一市民だったのなら。
不意の事故の話の解決策の一つが、自分は人を殺してしまうかもしれない行為を為すのだという覚悟を持って挑むことであるように、先の話も解決策の一つは、自らで考え、覚悟を持つことであると思うから。

*1:あってんのかな?まあ、間違ってても仮にそうだとして。

*2:愛なんか特に相手が必要だからどうのこうのとか

*3:そういった意味では、まさに、人を赦すことは自らを赦すことに繋がる。