不感症だから意味求めちゃうんだろうな

以前、感情を押し殺しちゃいけない理由は、押し殺すことに慣れてしまうと、何を感じているのかわからなくなっちゃうからだよなってーっと書いたけど、これも一緒で心の震えを、それは無意味であり無意味は悪いことであると、社会の枠組みが保証する価値観に従って無視しちゃうことで、心が何を感じてるのか、震えてるのかどうかわからなくなり、それは無意味な行いであるからという、社会の枠組みが保証する価値観にますますべったりと縋るしかなくなり、不感症になり、縋るしかなくなり、ってスパイラルだよなあ。
これまた以前書いた、音大生の子の話では、自分の心が震えてるのかどうかわからなくなった女の子が、世の中的には楽しいとされているディスコで踊りながら、これは楽しいの?楽しいのよ!本当に楽しいの?楽しむのよ!、と自問自答する下りがあるけど、まさにそんな感じで、自分が本当に楽しいかどうか、心が震えてるのかどうかわからなくなってしまったら、みんながそうだと言う、これが楽しいことでこれが意味ある良いことでこれが勝ちでこれが負けで等々の、価値観に従わなければ不安でしょうがないから従い、盲目的に従い自分の心の内を観察しようとすることをしなくなるから、ますます不感症に陥り、縋り、陥り、縋り、陥り、ってまた同じ話になっちゃったよ。ま、そんな中、不安でしょうがないが故に、それが本当に楽しいことがどうかという確証がないが故に、声高に言ったりすんだろうな。楽しい!って。この価値観は正しいと言わんばかりに。
ま、そんなこんなで、これまた古くさい言い方になっちゃうけど、無意味を蹴散らせるくらいに心の震えに強度がないと、従わざるを得ないんだろうな。無意味?それがどうした!俺は今こんなにも心が震えてるんだ!的なのは、やっぱ、ま、難しいよねっと。しかし思いもよらず古い話になっちゃったけど、でもまあ字面的にも言ってることは一緒なんだから、これも単なる焼き直しだったのかな。知らんけど。覚えてないがな。
しかし、何となく2回目読んだけど、無意味じゃない?って聞いてる絵面の格好悪さは何なんだろうねこれ。せ、先生に言いつけてやる!っていう姿や、緊急事態のお役所仕事の姿、ですからそれはあのーえーっとマニュアルにはちょっとーそのー、と似たようなものがあるから、自分の言葉を持たない人が、外部の価値観のそれを頼って、自分の言葉を持つ人を非難する滑稽さ的な感じなのかな。それこそ知らんけど。しかし、あれだ。調子が悪い。夏風邪かな。扁桃腺と頭が超痛い。