書かないと何かもやもやして不快

つーわけで、2ヶ月くらい前に考えてたこと。性的な視線に対する嫌悪感ってのは何なのかって話。いや、知らないけど、よくそう言うから、13くらいの少女の立場になって妄想した結果、自分を通して、自分の知らない自分を見られる、不快感みたいなもんじゃないかなあって思い至る。
例えば脚。少女からしたらそれは何の変哲もないただの脚であって脚でしかないただの脚。でもその何の変哲もない脚をじっとりねっとり執拗に、延々と見つめてくる不審な男性がいる。少女が認識しているようにただの脚であるならばそんなに見ないだろうってくらいにガン見されて初めて少女は気がつく。あの不審な男性は私の何の変哲もない脚に、何か違うものを見出しているのではないだろうか、私の知らない私を見ているんじゃないだろうかと。その時の少女の気持ちを考えたら、何か得体の知れない怖ろしさを感じているんじゃないのかなっと。
ちょっと違うけど、感じとしては今まで普通の友人だと思ってた相手が実は同性愛者だって聞かされた時の感じに似てると思う。自分としては相手との親しさの間にあるのは友情だと思っていたのに、相手は自分のことを性的な相手として認識していたのだと知ったときに感じる、言葉は悪いけど、ちょっとした薄気味の悪さ。自分が知っている自分、友人としての自分ではなく、自分の知らない自分、性的な対象としての自分、を相手はずっと見続けてきたっていう。
でもどうしてそれが嫌なのか。自分が知らない自分を見られることの何が嫌なのか。これが、漫画とかでよくある、死んだ恋人にそっくりな相手と付き合い、そこに死んだ恋人を見出すってのと一緒で、この前書いた主体感って言葉で説明できるのならば、一応の理由にはなるのかな。自分で選択肢を選んでる分には飽きないのに、攻略サイトを見た途端にやる気がなくなるのは、自分がやっているという主体感から、自分がやっているのではなく攻略という文言に従ってやらされているという主体感の喪失に繋がるように、私の知らない私を相手にされていると、私という主体感が…ってちょっと無理ある気がするな、やっぱこれ。そっか。最後の結論がまだだったから、書いてなかったのかな、これ。でもまあ、いっか。そんな感じでこんな感じ。すっきりしたからよしとしよう。