所有と共有

非処女は中古って言葉が何よりも雄弁に語ってるよなー、っと気付く。
中古って言葉からわかるように、物的な存在、というか扱いなんだろう。だから、現在親しくしている相手との間を深めるコミュニケーションの一手段としてのセックスではなく、自分の物として登録する儀式としてのセックス

id:snyd:20080813:1218612050

乱交物を見るとわかりやすい。多くの男女が入り交じり、入れ替わり、重なり合うそこには、ヤリマンとか肉便器とかいった概念は微塵もなく、ただコミュニケーションとしてのセックスだけがある。また、所有という前提がないので、いい女とセックスしている相手に対する僻みや妬みなどもない。誰かがその権利を所有しているわけではなく、むしろ共有に近いため、参加するなり、あるいは、よし次にやればいいやといった感覚しか生まれない。
所有とか共有とか書くと何様だっつー話になるけど、これは男に限らず女にしても同じことだから、乱交が終わった後に男衆が、あいつの具合は良かったな、あいつはゆるかったな、などという話題で盛り上がるように、女衆もあいつは早漏だな、あいつのは小さいからな、などといった話題で盛り上がるだろうし。
しかし、乱交の自然なこと自然なこと。基本的に昔の村単位の集団では乱交がデフォだったんだろうなあって思わせるくらいの自然っぷり。村単位のコミュニティーで、この女は俺のだって所有してギスギスしてる絵より、全員が全員の共有物、というか一連託生というか、運命共同体というか、そういった具合に、所有なんてない純粋なコミュニケーションとしての乱交を楽しんでいる絵の方がしっくりくるように。
ヨーロッパの方じゃ昔っから異文化の人が多かったから違うだろうけど、同質的な日本みたいなとこで生まれてから死ぬまで同じところで暮らすような村みたいなとこだと、一般的だったんじゃないかなって気はする。夜這いは結構あったらしーってくらいの浅すぎる知識しかないから知らないけどさ。都市的な、流動性が生まれるまでは、結構ふつーにあったんじゃないかなあっと、乱交物を見ながら、まあそんな感じのことを思う。いやー、自然な感じでいいね。所有を前提とした中古云々なんて考えが不自然で病的に思えるくらいの自然さが。