権利って何だよ、誰に貰ったんだよ

と、昔思ってたけど、今考えると権利を与えてるのは他ならぬ自分だったよなっと。われわれが奴に権利を与えたのだ。おまえたちとわたしとが、ってか。当然のように神から賦与された権利なんてのは存在しない。存在しているのは、その権利があるかのように扱う人間の振る舞いだけ。振る舞いが錯覚を生み、錯覚が権利を生む。本当にそのような権利があるように振る舞うことで、本当にその権利が発生する。存在するかのような効果を発揮する。
その理屈で考えると価値観を布教する人の、あるいは異なる価値観を排斥する人の原理がわかる。子会員孫会員を増やそうとするネズミ講の会員は、下の人間が増えれば増えるほど、自分の相対的な位置が上昇するように、自分が参加する価値観を信じる人間が増えれば増えるほど、自分の相対的な位置は上がり、しかもネズミ講のように破綻するどころか、信じる人間が増えれば増えるほどその価値観はますます強固に、盤石になり、その価値観から得られるリターンが、安心感や幸福感などといったものが、増加する。一人が信じてるだけなら胡散臭い価値観でも、十億人が信じていれば正しい真理に思えるように、みんな信じている価値観なんだからと、それに参加する自分が得られる安心感や幸福感、参加していない異なる価値観の者に対する優越感は、価値観が強くなればなるほど大きくなる。
ただ、優越感と言っても、異なる価値観がある程度の勢力を持ってしまうと、自らが信じる価値観の相対的な力が減少してしまい、得られるリターンも減少し、それに何より自分の信じる価値観が本当に正しいのか、不安に陥ってしまうので、異なる価値観の者を切り崩しにかかる。あわよくば改宗を、それが無理でも邪教を信じるのをやめるように。
改宗とか邪教とかいうと宗教的なそれのように思えるけど、限らずもっと全般的な話。一般的に流通している倫理から、友情や結婚などという価値観まで、同じ構造を持つ様々なものについて。だからたとえば、現在一般的に幸福とされる価値観に参加する人がいるとする。その人はその価値観を広めようとする。たとえば結婚はいいよとか云々。そうすることで、現在自分が参加し信じている幸福という価値観が正しいと言い聞かせることで、本当に自分は幸福なんだと安心することができる。って、微妙に違う例になっちゃったけど、雰囲気的にはそんな感じ。参加してない価値観を貶め、参加している価値観を賛美し、その価値観を強固なものとすることで、それに参加している自分を再肯定しようとする運動みたいなそんな感じ。
どうでもいいけど、人間ってえらいもんであれだな。時間が経つにつれて、集中力が落ちるにつれて、段々飽きてくるにつれて、文章が段々やる気なくなってきてるのが、わかるんだから。そう考えると最初を見れば程度がわかるとも言える。まあ後半伸びる人もいるだろうけど、少なくとも自分みたいなタイプには、ある程度そういうことができる。だからまあ、この程度。最初っからして、こんなもんが関の山なんだろうな。