まーでもあれかー

昨日の、好きでもないのに好きって振る舞うことができないってのも、昔書いた、罪の償い話にしても、礼の話と考えれば、すっきりするのかー。
本当に尊敬できる人にしか礼をしないaくんは腑に落ちないことがあった。どうして誰にも敬意を持たずに誰にでも単なる形として礼をしているbくんの方が、礼儀正しいってことになってるの?ちゃんと敬意を持つ人だけに礼を取るボクの方が礼儀に正しいんじゃないの?
それはね、たとえ全く信じていないとしても、ご先祖様を祭るときはそこにご先祖様がいるかのように、神様を祭るときはそこに神様がいるかのように祭らなければ、周りの人になんて礼儀知らずな人だって思われるように、礼は、礼とされていることを、礼として行うから礼であって、真心を持っていたとしても、ちゃんと礼として流通している行動をしなければ、苦労するから礼は取っておいた方がいいよー。
そう考えるならば、神様がいなくても神様がいるかのように祭るように、敬意がなくても敬意があるかのように振る舞うことが礼とも言えるんだから、礼はキミが考えてるような素敵な何かというよりも、同じ礼という規範を持つ者同士の*1人間関係を確認するための儀式的なツールに近いんじゃないの、云々。
その考え方でいけば、好きかどうかは関係なく、丁重に接することが孝行であるし、内心なんか関係なく、償いとされる行為を長年続けることこそが償いである、っつーことになるよねーっと。まあ、後者はいいとして、前者はちょっとなーって思う自分は若いのかなー。知るかファッキンできるかファッキンって気分。一言で言うならばやなこった。やなこった、ばーか。

*1:言葉に誠意があって信用でき、行いが誠実ならば未開の国でも通用するけど、その逆だったら自分の国でも通用しないよねーって話もあるから、もっと普遍的とも言えるけれど。