正味な話

功利云々の例として、移植すれば助かる各臓器の患者、例えば6人を助けるために、健常者を殺してバラすのはありかなしかって話を聞いたときには、なしやろーって思ったんだけど、それが60億人だとどうかっつーと、うーんって考えちゃう。
しかもこれが、世界中の人間と目の前の女の子っていうベタベタなヒロイックな場合だと、そんな手段を取ることでしか生き延びられない人類なんか滅びてしまえって天の邪鬼なことを思うのに、侵略してきた宇宙生物を倒すために人類が取り得る最善の手段として、何の罪のない健常者をバラして対宇宙生物用の秘密兵器の素体とするのは、どっちかっつったらありなのかな、とか思っちゃう。
ここで、そういった手段を取る人間を冷酷であると非難するのは簡単だけど、それで人類あぼーんが確定するならば(ループし実験が可能であるが故に確定)、正当な手続き云々を盾にし非難した所で、結局は自分の手を汚したくない、潔癖主義的な自己満足に過ぎないのかなとか思えるから。
だからまあ、似たような場合でもシチュエーションが違えば自分の中の結論が異なるように、どの原理原則を自分は取るかっつーんじゃなく、後悔しない選択を、ではなく、選択してから後悔しないこと、その問題をインプットした際に自分という回路から弾き出されたアウトプットという、自分の直感を信じ切ること、選択してから後悔しないことを決断とすること。そんな感じのことが大事なのかなっと。原理原則っつっても、結局の所、エクスキューズのダシにしてる場合が多いから、あの時はあの原則によればああするしかなかった、だなんてエクスキューズに頼るのではなく、あの時は自分が自分の責任に於いてああ決断した、って方が、ま、いいんじゃないかなっと、そんな話。
だから、最近は直感を信じることにしてる。シュークリーム買おうかな、アイス買おうかな、エクレア買おうかな、生ドラ買おうかな、って考えた時に一番ピンと来た生ドラ買ったり、肉買おうかな、パン買おうかな、肉まん買おうかな、カップヤキソバ買おうかな、そもそもそんなに腹減ってないからやめとこうかなって時に、一番点数的に高い、というか直感的にピンと来てた、カップ焼きそばを買ってみたり。まー、直感ばっかり信じるのも、原理原則と一緒で、思考停止になりかねなくもあるんだけど、肝要なのはそこじゃなく、選択してから後悔しないことだから、それを慣らすためにも、いいのかなって思ってる。この前も直感退けて水色のカットソー買うのやめたりしたし。ピンとは来たけど、少ない手持ちを考えるにあれは秋冬にはいらんわな。