今更でベタな話だけど

どうよ?っと聞かれたらやっぱりちょっと考えちゃうよなあ。酔っぱらいが自分の悪口を言ったとして、周りの人間に、気にするなあれは酒の席の上でだからとフォローされてもどこか腑に落ちないのは、いやでもそれが本音じゃないの?っていう、その類の考え。
古谷のマンガの今週の話。ガキの頃から人殺すのを想像してオナニーしてて実際に殺しちゃったんだけど、俺って可哀想じゃね?(だって普通に女の子のエロいことで興奮できずに、こういうことじゃなくちゃ興奮できないんだから)っていうあれ。
もっとわかりやすい例としては、同性愛なんて気持ち悪いって考えているのに、同性の子しか好きになれない人の場合とか。そういった例に対してこう問うとどうなるかという話。一体どちらが本当の自分なのか。考えている自我の方が本当の自分だとすれば同性愛なんて気持ち悪いと考えている自分が同性の子を好きになるのはおかしい。では自我じゃない方を自分とするならばこうして考えている自分とは一体何なのか。いや本心では実は同性の子を好きで云々。そういう話。
以前はコンピューターのハードとソフト、ハードがあってもOSがなけりゃタダの箱だし、OSあってもハードなけりゃただの文字だ、っつーことで、とりあえず収めたんだけど、どうよ?って問いかけてみると、うーん、ってなっちゃうんだから、ま、心底納得はできてないんだろうなあ。今の考えだとやっぱり胡散臭かろうが、やっぱりハードが出力する結果を、導きだすような理由を、自我が模倣しているように思える。そうしてハードと同一化できるソフトが正常な人間ってことになるんだろうなっと。
同性愛の子はまだ葛藤しているけど、可哀想じゃねって方はある意味折り合いをつけ始めている。自己のハードの特性を受け入れ始めてる。更に進めて、自分は狂ってるんだよ、って輩は完全に折り合いがついているって言ってもいい。正常という基準はあるものの、自分は狂っていると、正常という基準からすると狂っているハードに、自分は狂っていると、自我を同一化できているから。