昨日今日と

あつい!、なんてちょっとさわやか風味に書いたけど、実際は、あづい……クソ!死ねよ……夏とか空気読めよ……クソッ!なんて具合に汗だくだくでぐだぐだ文句言ってたわけなんだけど、そこからの連想として思い浮かんだのは、そういえば、よくある、どっちが本当の云々なんだろう、とか思わなくなったなーってこと。

さて、もし新入りの子も先輩に倣ってそうした場合、一体どうなるのか。表面上は丁寧に奉仕するし、攻めれば大いに悦び、従順な奴隷に堕したように見えるが、心の奥底では主人に対する憎悪を煮えたぎらせている。煮えたぎらせてはいるのだが、しかし、彼女がやっていることは従順な奴隷と変わらず、主人を喜ばせている。そしてその心の奥底を一生涯、表面上に出さないとしたら、彼女をどうやって認識したらいいのか。

奴隷の表明に疑念を抱く臆病な主人のように、他者の行為の裏に疑念を抱かない限り内面は存在せず、その行為こそが他者である。観測されなければ…って話と一緒で、そう考えたのならば、彼女にとって彼女自身とは表面上では奴隷でありながらその精神は屈したなかった高潔な人間であるが、彼女以外の全員からしたら彼女は単なる奴隷に過ぎない。
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以前、こんなこと書いたけど、今の自分ならば、こう答える。あるのは外形の行為だけであって、内面の心なんてない。や、極端な物言いなのは自覚してるけど、でも、極端な話、そういうことだよなーっと。
将来の株価を保証するとされるファンダメンタルが、結局のところその正しさは、将来の株価によって結果的にしか保証されないように、バガボンドであった、天によって全て決められていて、そうであるが故に、完全に自由だ、って話のように、心をモニタリングする装置が現れない限りは、そういう形でしかやっていけないよねっと。
つまりは反逆しない限りは従順な奴隷であって、反逆してはじめて、まあ口に出すとかノートに書くとかの行動でいいんだけど、行動に移してはじめて、ああ復讐心を煮えたぎらせていたんだなと、事後的に、判断することができる。


って、これだと、例外的にモニタリング装置を持っている自分の場合には、当てはまらないか?まー、そんなこともないか。文学少女でネガティブなことしか書けない子に対して、宮沢賢治はいいことがない人生だったけど、素敵な世界を空想し続けたわ、って話と似たようなもんで、クソ!夏とか死ねよ!なんて思ってても、あついね!と書くのはまた別物であるというか、だからどうだっていうか。
ああ、問題が離れていってる。何年か前の悩んでいる日記を読んで、あれ?これってなにをどう悩んでたんだろう?って素でわからないことが多々あるけど、それと似た感じが。本当の云々って問題が、離れていってる。興味を持てないというか、どーでもいいよーっていうか。悩みでパンクするんじゃねえか、なんて思ったときもあったけど、なんだかんだでなんとかなってくもんである。少なくとも。今のところは。