NLP関係の本をはじめて読んだけど、本屋で入門書をぱらぱら立ち読み程度、自分の考え方と近くてすっと入ってくる。本能は快不快を基準に決めてるだとか、基本的に自我を守るために肯定しかしないだとか、無意識は否定を認識できないだとか、意識なんて氷山の一角でその下にあるでっけえ無意識さんがほとんど決めてるだとか。ま、自分の場合、最後のはもっと極端に、そもそも意識は能動的なものじゃなく無意識さんが決めた思考・決断・行為を受動的に認識しているモニター機関であり、ほんのわずかの遅延であるからあたかも自分自身が、意識自身が自我を持ち能動的に決めているように錯覚しているだけ、くらいに、半ば本気で思ってるんだけど。
56k時代にMC小説を読みあさってたせいもあり、ミルトン・エリクソン繋がりで、NLPって言葉自体は知ってたんだけど、こういうカンジの体系だったのか。てっきり実践的な催眠関係のなにかかと。ま、使えそうなのが、もっと上等な、それこそマインドコントロール的なのが、ちらほらありそうな雰囲気だけれども。しかし、ラポールとか聞くと、未だにMC小説がフラッシュバック。読みあさったなあ。
検索してみると意外と書いてないことがあった。否定を認識できないってのはさわりだけで書いてないし、バックトラッキングについても似たようなこと書いた気がするんだけど、なかった。要は相手の話を聞いてますよってメッセージを返すことが大事なんだから少し言い回しを変えて云々みたいな話。消したんだっけか。しかし似たようなことを何度も書いてるなあ。でも下から3番目の話はこの前書いたことに通じるな。すっかり忘れてた。その考え方でいくと、売春は体を売っているんじゃなく心を売っているというのは、自分が制御しているという錯覚を、幻想を売り渡しているといった意味で、正しい。

理屈って観点から見れば矛盾していても、快不快って観点から見ればダブス タなんてことは殆どない、って以前書いたけど、それはどういうことかっつったら、その状況の情報を基にして組み立てた理屈が先にあるのではなく、その状況の情報を快不快で判断した結果、それに沿うような理屈が提出されるってことだよな、と。そしてそれが全般的にそうであるとするならば、自我が考えた結果に従って行動しているのではなく、無意識的な部分によって判断された結果に沿うような理屈を、自我が捏造し続けているだけなんじゃないか、と。それこそ小説の中の登場人物のように、自分が考えた結果による行動であると信じて疑わないように。
d:id:snyd:20071028:1193540940

昨日のは息だ。制御できるっちゃできるけど止め続けることはできないように、自我ができるのも基本的にはそんな程度の上っ面の制御だけじゃね、っと、前書いた話の補強。動物なんて基本的に肯定しかないけど肯定しまくるよりは肯定を押さえる機構があった方が繁栄に適する場合がある。本能の肯定に従って周りの牝をレイプしまくったり略奪を繰り返しまくるより、その肯定を抑えて友好的に振る舞った方が良いときがあるように。それでその否定機構が発展したのが自我ならば、元々できることなんて上っ面の制御系だけじゃね、って話。他に、言葉を使わないで否定を表すことは難しい、ってか無理じゃねってのも加えたりして。
d:id:snyd:20080111:1200006565

無意識さんの行動を観察してみると自我が傷つくことを回避しようと色々頑張ってくれてるのがわかる。死を選ぶのも逃避という形で表されることが多いように、生物としての終わりを以てしても自我を守ろうとしてくれる無意識さん。
d:id:snyd:20080403:1207211296

投げられた石にもし意識があったなら石は自らの意志で飛んでいると思うだろう、って昔の偉い人は言ったけど、自我ってのはそんなもんじゃないかなっと思う。ある程度の機能が実装されていれば、自我が存在するかのように振る舞うだけなんじゃないかなって。因果の逆転なんてのがなくとも、そもそもからしてまず結果が先にあって後から理由をつける現象が多々見受けられる。

例えばダブスタにそれは現れる。ヨーグルトに砂糖を入れるのは本場ではやらないと周りを批難しておきながら、酸っぱいキムチは嫌いだと言うので本場では酸っぱいのも食べるらしいと伝えると本場なんて関係ないと言う態度は、本場での食べ方があってヨーグルトやキムチがあるのではなく、ヨーグルトに砂糖を入れない食べ方が好きだから援用し、酸っぱいキムチは嫌いであるから援用しなかっただけであるように。それらはほとんどが無自覚的で、まず果があって因は探されるのにもかかわらず、因があるが故に果があるのだと信じられている。

たまゲーで課長と一緒にアーケードゲーをプレイしてたおばちゃんが、自分の機は死んでいるのに課長の機を見て楽しそうにガチャガチャ操作してたのにも似てる。観察しなければわからない。レバーが方向に対応していてボタンが弾に対応しているのではなく、何だかわからないがガチャガチャとレバーを動かしボタンを叩くと画面の向こうのキャラがいい感じに動くのだと認識してしまってはわからないように。

わかりやすい操縦桿がないロボットに乗ってるパイロットみたいなものでもある。思念で動くとされるそれに乗ってるパイロットは、ロボットが動いたということはそれが自らの思念によるものだなと考える。そして因果を捏造し、自らの意志で動かしているんだと錯覚する。石というロボットに乗った意識のように。
d:id:snyd:20080301:1204346176

笑ってはいけないより笑わなくてはいけない方が大変そうだなっとそんな企画を見ててふと思う。何が辛いのかって言ったら多分笑いを強制されることにより笑いが私のものではなくなるということ。私が面白いと感じた時に発せられる行為であった私の笑いが、環境に強制されることによって奪われてしまうこと。そんなのが辛いんじゃないのかなっと。だから彼らは規格内で本当に面白いことをしようとする。本当に面白いことに対して笑うことで、私が面白いから笑っているんだと、私の笑いを取り戻そうとするために。感情労 働ってのはそこらへんなのかなっと。

あるいは、前に書いた話、内面ではツバを吐いているがそれを一切表には出さない性奴的な話でもあるのかな。なぜそれが辛いのか。私の感情が奪われるのではなく、元々それが私のものではなかったと示されてしまうから、簒奪者の子孫である私は疑うことなくそれを私のものだと思っていたが、正当な後継者が現れそれを持ち帰ってしまうから、って感じで、飛んでる石に意思があったら石は自分の意思で飛んでいると思うだろうって話のように、生まれた時から勝手に動くロボットの中に乗っているパイロットはあたかも自分の意思でそれを動かしているのだと錯覚、ロボットが踊り出したらそうだ私は踊りたかったから踊れと命じたんだと理由を捏造し転倒し我が意思の下にロボットを制御するように、私と行動との関係は、私が所有していたと思っていたそれらの感情は、遠い昔に簒奪して忘れていたが、本質的に私と関係のないことで、私が勝手に捏造して所有していたと勘違いしていだだけのものであると、あらわにされてしまうから…って、一文が長い見辛いわかりづらい。
d:id:snyd:20080501:1209594758

3時間以上の超大作を見た気がするのに実は40分ほどしか寝てない時に感じるこの違和感
この夢の異常な情報量。むしろこれこそが脳の本来の情報処理速度に近いんじゃないのかなっと。だから脳のどこかが決断した後にその決断に至る理由を捏造し、この私がそういった理由により決断したのだと捏造し転倒し錯覚するって前に書いた話は十分に可能だし、普段の私の情報処理速度がこんなにも遅いのにも色々と考えることができる。そもそも生まれた時からロボットに乗ったパイロットみたいに錯覚しているだけであるとか
d:id:snyd:20080508:1210213010

後はあれだ。そもそもからしてモニタじゃないのかって話。飯を食う前にローテンションで、飯食った後に持ち直したのは、本当に私なのかっていう。私が食事で気分が良くなったのではなく、身体が栄養補給して調子が良くなったっていう反映じゃないのか。なんかわかりづらいから前の例で言うと、知らないおっさんと何も考えることなくアドリブで会話した数秒後に、はあ疲れたと嘆息した場合、疲れたのは一体誰であるのか。おっさんと話してる時に私は何を考えてたわけでもなく、むしろ存在しなかったといっていいくらいに何もしてなかった。それじゃ疲れたのは身体であってその反映が、モニターである自分のところにもたらされて、さも私が疲れたかのように振る舞ってるだけなんじゃ、身体の信号が映される数え切れないくらいのモニタの前に座る小人が、身体の信号をあたかも私がそう考え、そう思い、そう体感してるかのように錯覚しているだけなんじゃないかと。
d:id:snyd:20080529:1212068228