偽善の定義がいまいちわかんなかったんだけど、これはあれか。行為と動機がごっちゃになってるから、そして善行というある種特殊な分野ではむしろごっちゃであるべきだという考えから、わかりづらいことになってんのかな。
福祉の分野でそれ自体でちゃんと回って稼働していくために利益がでるビジネスに仕上げたら、けしからん、福祉で金儲けだなんてけしからん、なんて話が出たことがあったけど、それと似てる。これを行為自体で見るならば福祉に参入する人が増えそのサービスを享受できる人が増えハッピーの量からいえば増大すると思うんだけど、善なる行為は善なる動機によって行われるべきである、なんて考えがあるのかどうか知らんけど、まあそういう考えからしたら、善行は善なる動機で行われてこそのものってなことで、動機が金儲けである福祉はすなわち偽善であり福祉を食い物にする金の亡者であり、つまりけしからん、ってカンジになるのかなあっと。ごっちゃというよりも、動機偏重の方が近いかな。


祖父の隠し子を誰が引き取るかでお互いに押しつけ合う親戚たちに嫌気が差した独身の主人公がその子を引き取るマンガがあって、なんだかんだありつつも、その子も今じゃ女子高生。なるほど確かにそれは美談じゃわい、となってるところにひとつの仮定を持ち込んでみると、どうなるか。もしもその子が主人公と結ばれてしまったら。動機と行為の話はこういう面もある。施設に入れられそうだったその子を女子高生になるまで立派に育てたのは事実。でも、もしもそこで、女子高生からの純真無垢なピュアな恋心だとしても、結ばれてしまったら、主人公の今までの行為は引き取った幼女を育てて食ったと、結局食うために引き取って育てたんじゃねえのかと、そういう評価をされてしまうのではないだろうか。


渋沢栄一論語解説する本の克己復礼、己に克ち礼に復る*1、の下りで心を重視する仏教と比較してた。行為を重視する論語では己に克ちて礼を実践することが大事なのであって、仏教のように心をどうにかするのではなく、自分自身がどうにかできる行為をなんとかしようということであります、従って極端な話、見えもしない心なんてなく、目に見える行為を、つまり礼に従った行動を取れるかどうか、己に克つことができるかどうか、それが心なのであります、みたいなこと書いてあった。嘘。や、嘘じゃないけど、嘘って言ってもいいレベルに違う気がしてならない。ま、大意は多分こんなカンジだったと思う。ポンコツ脳の記録的には。


スタンス的にはその考えを取りたい。つまりあるのは行為のみ。遡及的には評価せず、あくまでその行為のみを評価する。だから、たとえどこぞの小説のように、自分のものにするために孤児を引き取ったおっさんであろうと、というかあの話の場合は更に実の娘だったけど、手を出すまでは何も問題はなく、結婚詐欺師に騙されてる途中のいい気分にしても、それは騙したときに、その騙した行為のみが問題であり、その前段階の、結果的には騙すための捨て石であった、いい気分は問題としない。なんていうと、ものっそい極端な、悪に荷担するんかいっつー、ネガティブなカンジするけど、同じくらいかそれ以上にはポジティブな面もあるんじゃないかな、かな。
で、だ。この考え方からいくと、もしも金儲けが目当てなあくどい人が経営するにしても、福祉ビジネスという行為によって、現実に助かってる人がいるのならば、それは善であるってなことになる。動機はシカトだからね。とすると、そもそもからして、偽善という概念がなくなる。善とは誰かが助かる行為である、おわり。そういう定義だから。これが偽善の定義っていまいちわかんないなあって疑問に対する自分なりの答え。偽善なんてねえ!動機なんていいんだよ。現実に誰かが助かってりゃそれで充分じゃねえか。動機まで善とか神様の到来でも待ってろっつーの。人が人を助けようとするのに聖人望むんじゃねえよ。純粋に純然たる100%の善意なんかなくても、ちっぽけでみっともない心の中にちょこっとでも誰かを助けたいという気持ちがありゃそれで充分すぎるじゃねえかと。そういう話。萎縮させるこたぁねえだろうと。たとえちっぽけでも、せっかくの善意を。

*1:復するじゃなくて復るだった気がする