愛なんて呼ぶから真に受けたアホが勘違いしよんねん。
感覚的には、普段なら飲まない学校の水道水をノドからっからになった部活の休憩時間にがぶ飲みするような、あるいは、餃子に乗っかってた陰毛を払いのけて食べるような、そんなカンジ。衛生的には、というかイメージ的には好ましくなくとも、実際に飲んだり食べたりしたところで、体には何の影響もないと実感する行為に近い。衛生的には、なんつーけども、実際に飲んで食べて影響ないんだから、それが衛生の問題ではなくイメージの問題であると実感し、納得するための。
世界的に、歴史的に考えれば、普通に暮らしながら、そんな衛生のイメージを保てるっていう現代の日常は異常ともいえる。落としたものは汚いから食べない、なんて途上国行ってそんな日常を保てるかどうかっつったら、難しいように。だから大半の場合、普通に暮らしてるうちにイメージと体感との乖離は埋まっていくはずなんだけど、現代の一部の国だとそのイメージをイメージのままに保って暮らしていけるから、ややこしくなる。
その最たるものが潔癖症であって、こち亀に、もし砂漠で死にかけていても私はミネラルウォーター以外飲まないと言って目の前の泥水を飲まずに死んでいったら尊敬してやる、って話があったけど、そんなカンジで普通は現実によって埋められるはずのイメージと現実との溝が、キレイなイメージのミネラルウォーターが常に販売されていることによって、埋められないままに生きていくことができる。
食事にしろ生殖にしろ。愛や衛生がまかり通る、というか、そのイメージを保ったままに暮らしていける環境によるもんなんだろうなあっと。万能ならぬ万脳。もっと肉の声を、というか、所詮は基本は根本は、肉でしかないんだから。しかしそれは考える肉である、なんちてな。