神はいるか

「神はいない」
「神はいるよ」
「じゃどうして世界はこんなにも不公平なんだ」
「世界はこんなにも公平じゃないか」
「どこが」
「善人でも不幸になるし、悪人でも幸福になれる」
「だから神はいないと言ってるんじゃないか」
「だから神はいると言ってるんじゃないか」
「努力や善行に対して相応の報いがないから不公平だといってるんだ」
「努力や善行に関係なくひとりひとりに対して幸不幸が降り注ぐから公平だといってるんだ」
「神がいるのならばそれを加味しないのはおかしい。だから神はいない」
「神がいるのならば人が勝手に決めた尺度などを加味するわけがない。そして実際に加味されることなく、善人にも不幸が、悪人にも幸福が降り注いでいる。だから神はいる」

神は何をしているんだ?神は本当にいるのか?的な問いは善人に不幸が、悪人に幸福が訪れたときに使われることが多いと思うんだけど、神が公平であることを前提としているのならば、まさにそれこそが神のいる証左じゃないのかな、と不思議に思う。
神の話をするとき、散水のためにホースを持ちながら蛇口をひねろうとかがんだ際に見える地面を這うアリの行列が頭に思い浮かぶ。そのアリたちが何を考え、どんな生き方をしてきたのかはわからない。わかるのはどれも等しくちっぽけなアリであるということ。蛇口からこぼれた水に溺れたり、運良く逃れたりしたアリが、善なのか悪なのか、そんなことはわからない。
いるだなんて思っちゃいないけど、もしいるかいないかで言えば、いるだろうと思う。善人も不幸になり、悪人も幸福になる。故に。