非モテとリア充

非モテは非・モテってことでモテることがベースとなってたけど、リア充においてはそれが逆転して、少数派としての*1、リアルが充実しているグループという分け方になっている。
非モテの場合は少数派、異端としての非・モテ、モテという多数派グループのアンチとしての集団だったが、リア充においてはそういった幸せなやつら*2リア充というレッテルを貼ることで発言者の立場を多数派に属することに成功している。


非モテは排他的な集団であった。非・モテというその定義により、先鋭化したエリート集団内においては、一度でもモテた人間は排除され、今まで一度もモテたことのない人間であってもこれから先ほんの少しでもモテようものなら排除されてきた。内ゲバの論理。
一方リア充では逆の力学が働く。リア充とはリアルが充実している人間とされる。モテの定義も大概いい加減だが、リア充の定義は更にいい加減である。たとえモテていたとしても倦怠期だったり仕事がブラックだったりするとそれはリア充の定義から外れることになる。非モテにおいては定義から外れた人間は排除されどんどん先鋭化していくことになるが、リア充においては逆に定義から外れた人間をどんどん吸収し拡大していくこととなる。
しかも非モテにおいては一度モテてしまえば非モテたる権利を失ってしまうのに対し、リア充は過去に何度リア充だったところで現在が充実していなければ何度でも戻ってくることができる。非・リア充ではなく、リア充のことをリア充と発言できる立場に。あくまでリア充たちがレッテルを貼られる側なのである。マジョリティには名前がない。名前をつけられるのはいつもマイノリティの側なのだから。


律法を遵守してユダヤ人だけを対象とするエルサレム教団と、律法よりもイエスの教えを重視して非ユダヤ人に布教するアンティオキア教団みたいなカンジ。パウロ的転回。僧侶的価値の転換。的なみたいな。

*1:多数派から突出したという意味で

*2:リア充の定義を満たすような人間がどれだけいるのかは知らないが