神はいつも正しい。神は間違うことがない。神の名を結果論という。

ある宗教グループの予言が外れたとき、予言された日に洪水もなくUFOも来ることなくいつも通りの今日が来た時に、予言が外れたと考えるのではなく、何らかの理由で正当化することで、信仰は確かなものになるという話にはエレミヤたちのような預言者の姿が見える。
あるいは三題噺のよう。神は存在する。神を信じる我々は苦しんでいる。なぜか。または。教えは正しい。しかし予言は外れた。なぜか。限定された条件下で納得できる理由をこしらえるという意味じゃ、ストーリーテリングの領域だといえる。我々が正しく信仰しなかった故の懲らしめなのかもしれないし、我々の信仰を評価してくださったが故の延期かもしれない。あるいは東京の地震をかえるくんが救ってくれたように、我々が知らないところで少女たちが世界を救うために戦っているのかもしれない。
解釈はいつも事後的に行われる。Aという事実があり、Bという事実がある。その2つを絶対に正しいものとして、事後的に結びつけるときに神の御業が生まれる。そこで初めて神の御意志を知ることができる。シャンクスの腕だったり、ディオの階段だったり。ちょっとちがうか。
ヘブライ語で将来を意味するアハリートは後方を意味し、過去を意味するケデムは前方のことを意味するという話は、そのように理解するべきものなのかもしれない。一般的にはそれ故に人は神に導いてもらわなければ正しい方向に進むことができないなんていうときに引き合いに出されるけど、そういった事後性の中にこそ、いつも正しく、決して誤ることのない神が存在するといった意味で。