そっか

至極当たり前すぎるくらいに当たり前な話だけど、無常なる世に生きるこの身が無常であるように、この私も無常であるんだなっとふと思った。
世が無常だということを知らずに、あるいは忘れてるが故に、物に執着、この世に常なるものなんてないのに執着し、世は変わらずに無常であるから、ものは失われ悩むって話があったけど、この私が常であると思うことで生まれる悩みってのも腐るほどあるんだろうなっと。
ついさっき、めちゃくちゃローテンションでこりゃもうだめぽって感じだったけど、まずい飯を食っただけで案外捨てたもんじゃないかもなとか思ったように、容易に変わる、というか、そもそも常なるものだと思うところに違いがあるんじゃないかなって気がした。中身がさっぱり違ってるのに、例えば数年前と今とじゃ別人ってくらいに違ってても、それを同一人物として担保するのは名前であるように、仮初めとはいえ常なるものである名前と、自分自身を混同しちゃってるんじゃないかなっと。
名前、仮に山田太郎とすると、私が山田太郎山田太郎と呼ばれる位置をキープしていても、私が山田太郎という名前のように常なる存在であるのはイコールじゃないんだから。私は山田太郎だけど、無常な存在である私は変わりまくりすてぃーだから、10年前の私と、5年前の私と、今の私は異なる。でもそのどれもが山田太郎であるのは、山田太郎という常なる名前と対応する位置に私がいるからで、山田太郎という名前がそのどの私もが山田太郎であると担保してくれているから。だからといってそこを混同すると、どの私もが常に私であり、私は常に変わることのない存在であると勘違いしちゃうんじゃないのかなっと。
後はあれだ。そもそもからしてモニタじゃないのかって話。飯を食う前にローテンションで、飯食った後に持ち直したのは、本当に私なのかっていう。私が食事で気分が良くなったのではなく、身体が栄養補給して調子が良くなったっていう反映じゃないのか。なんかわかりづらいから前の例で言うと、知らないおっさんと何も考えることなくアドリブで会話した数秒後に、はあ疲れたと嘆息した場合、疲れたのは一体誰であるのか。おっさんと話してる時に私は何を考えてたわけでもなく、むしろ存在しなかったといっていいくらいに何もしてなかった。それじゃ疲れたのは身体であってその反映が、モニターである自分のところにもたらされて、さも私が疲れたかのように振る舞ってるだけなんじゃ、身体の信号が映される数え切れないくらいのモニタの前に座る小人が、身体の信号をあたかも私がそう考え、そう思い、そう体感してるかのように錯覚しているだけなんじゃないかと。
操作方法を知らないおばちゃんがガチャガチャ動かせば画面のキャラが動くと錯覚し自キャラが死んでいることに気付かず(1Pキャラが生きて動いてるから)ガチャガチャ動かし続けるように、飛んでる石に意思があれば自らの意思で飛んでいると錯覚するだろうように、生まれた時から巨大ロボットの中にいるパイロットは自分の意思で巨大ロボットを操作しているんだと錯覚するだろうように、そんな類の錯覚なんじゃないのかなっとかとか。
そもそもからして、私が痛いわけじゃなく、痛いっていう信号が来てるだけなんだから、

って、もういいや。力尽きた。まあ普通ならこんな阿呆なことに躓かないんだろうな。いや、躓いたから阿呆なこと考えなきゃダメなのかな。だめだ、もうえらい。