顔洗った

学校帰りの小学生が鉢植えを持っているのを見掛ける。授業の一環で観察して、夏休み前に持って帰るあれ。え?もうそんな季節?って考えてみたらもう7月か。相変わらず早い。早いってわからないくらいに早い。矢なら見えるが、見えもしない。光陰レールガンの如し、って検索したら結構同じこと書いてる人がいて地味にショック。書いた自分が言うのも何だけどレールガンて。
まあ、そんな感じで、今年を振り返ると、本やら漫画やらゲームやら結構やってるとは思うんだけど、ぱっとは思い出せない。前にも一度考えたけど、やっぱりその日に何をしたかっていう、本当の意味での日記みたいなメモでもつけようかなって思った瞬間、じゃりン子チ エに出てくる小鉄の言葉を思い出す。ジュニアに対して、君は読み終えた本を飾って威張る悪趣味でもあるのかい?みたいな言葉。うろ覚えだけど、確かまあそんな感じ。そして次にちびまる 子ちゃんに出てくるヒロシの言葉が頭に浮かぶ。「思い出なんて憶えてる分だけ憶えてりゃ充分だよ。写真まで見てあれこれ余計な事まで思い出してるヒマないぜ。」
わざわざ思い出せないような本まで書き残すのは単なる悪趣味に堕しはしないだろうか。内容を露ほども理解しなくともその本を読んだ事実に満足してしまいはしないだろうか。ヒロシが言うように、わざわざその事実を見て思い出さずとも、憶えてる分だけ憶えれりゃ充分じゃないんだろうか。と、まあ、そんなことを自転車に乗りながら思ってた。危ない人ですわな。
ま、それに、前考えたように、自分は人間ってのを回路だと思ってる。エニグマは回路を持った3つのドラムが回転することによって毎回違う回路を構築し、入力された信号が複雑な経路を経て出力に帰ってくるって話を聞いたことあるけど、そういった意味合いでの回路。入力された情報が、様々な痕跡によって刻まれた回路を通って答えを出力する。だから同じ問いでも、3年前の自分と1年の前の自分と今の自分では答えが異なったりするのは、その期間に体験した、実体験でも本でも漫画でもゲームでも、そういったものの痕跡が、自分の中に新たな回路を刻み込んだ結果、出力される答えが変化したと考える。
そう考えた場合、ぱっと思い出せなくとも、それらの本やら何やらの痕跡は、自分の中に刻み込まれて新たな回路が育まれている。たとえその痕跡自体の影響力は弱く、単体では回路を刻めなくとも、体験したからには痕跡は確実に残り、それを体験する以前とは異なる新たな自分となっている。だとすれば、わざわざ残してまで思い出す必要は何もなく、今の自分という回路こそがその答えってことでいいんじゃないかなっと。そういった意味でも、前に暗闇で思ったように、結局の所、この身一つが財産であると言える。本を読んだ事実は社会的な保証と言えるが、それで何も得てなければ、保証がなくなった時に何もなくなってしまう。でも、それが自分に回路を刻み込んだのならば、死に至るまでは、如何な状況に陥ろうが*1、この身は決して離れぬ財産となろう。
って、影響受けやすいから、すぐに読んだものの影響が出るな。最後らへんの大仰な言い回しとか。まあ、これも一つの痕跡であり回路か。

*1:例えば収容所で裸で監禁とか