なぜ奴隷は鎖を自慢するのか

なんか新書にありそうなタイトルだな。ま、いっか。
さて、なぜ奴隷は鎖を自慢するのか。自らを縛る鎖であるにもかかわらず。それは他に自慢できるものがない故に、たとえそれが己を縛る鎖であったとしても、それを他人と比較し、自慢する対象とする。シンプルすぎる気がしないでもないが、でもまあ、そんな感じだろう。
ではなぜ他人と比較し自慢したがるのか。それはまあ、ベタな話ではあるけれど、不安だからだろうな。わざわざ他人と比較し優越を得なくとも、自己を自己たらしめるものがない故に、比較し優越を得るために自慢したがる。たとえ何も持っていなくとも*1、自分が所有する物は自らを縛る鎖だけであったとしても、己が鎖を自慢する。
おまけのような本題のような話として、それは奴隷に限るのか?と考えてみる。現代に於ける、何らかの物を持たずに、鎖を持てる者。例えば生のための労働が、繰り返されるルーチンによって、労働のための生ではないかと思う者。何らかを得ることに費やせる時間はなく、月日の大半を労働によって奪われ、たまの自由は休息に終わるような者。彼らの中で確固たる何かを持たない者はどうするだろうか。何らかを持たざる彼らはどうするだろうか。やはり鎖を自慢し始めるんじゃないのだろうか。己の労働を、奴隷のように、他と比べてどれだけ上等であるかと、自慢げに、じゃらじゃらと。
まあ、そんな感じの話。「なぜ奴隷は鎖を自慢するのか?」という題名は後から思いついたもので、元々の題名は、ぶどう甘いか酸っぱいか。相変わらずセンスないけど、でもまあ、そういうこと。

*1:実際は物持ってたでー、とかじゃなく、何も持たざる、持つことを許されぬ奴隷という仮定。