私村の住人か

身体の細胞は生まれ変わり、1年後には別人となる。しかし私は私である。故に細胞の固有性が私ではない。
細胞は生まれ変わるがDNAに基づいて構成される。それならばDNAが私ではないかと、クローンを作って私と出会わせる。しかし私は私であり、クローンは私ではない。故にDNAの固有性が私ではない*1
思考も時と共に変わり行く。1年経てば違いが生まれ、5年経てば大きくなり、10年も経てばちょっとした別人くらいに変わり行く。しかし私は私である。故に思考の固有性が私ではない。
時と共にどころかある一つの行為以前の私の思考と、後の私の思考とですら異なっている。例えば初体験の前はそれで人生変わるのかなどうなのかなと知らない私であるが、その初体験が人生を変えるようなものでなかったとしても、行為後の私はそれが人生を変えるものではなかったと経験しているように。しかし私は私である。やはり思考の固有性が私ではない。


以前、何十年も前に先祖がやったことを自分たちは未来永劫償わなければならないのか?それは殺人者の子が何の責任もないのに責められるようなものではないのか?という意見に対し、バカか?人と国とは違うんだよ。同じ国を名乗り続ける限りその責任は果たされなければならないんだよという意見があった。
厳密に言えば昨日の私と、今日の私が違うからといって、昨日の私が犯した過ちの責任を、それは昨日の私がやったことであって今日の私じゃないもーん、今日の私は知らないもーん、なんて抜かしたら、あっという間に社会からハブられる。一貫した責任主体でない人間なんて相手にしてられないから。だから私は私という国家のようにあらねばならない。


私が私であるのは、肉体や精神の固有性によるものではなく、名によって、中身がどれだけ変わろうと、私が私であると、保証される。私という名を引き受ける主体の固有性によって私が私であるのはなく、私という名を引き受けることが私が私であると名乗れる条件であり、私という名こそが私である。
って、分かりづらいことこの上ないけど、国の話に戻すとわかりやすい。国の中身がどれだけ変わろうと、政体が変わろうが文化が変わろうが民族が変わろうが、その国の名を引き受けている限り、その国はその国であり、内実が変わろうが国が続いているということは、国という名こそが国である。


と、まあ、こんな感じじゃないのかな、っと適当に思ったことを書いてみた。だから私が私であることを引き受けることによって、私が生まれる、ってすると、流れとしては綺麗なんだけど、一度書いて、全体見てみたら邪魔かなって思って切り取った一段落

今日私が眠った後に、脳内のHDDをフォーマットして、別の人格のHDDをコピーする。全く思考も経験も異なる別人格の記憶を。朝が来ると起動し立ち上がるそいつの意識。目の前にいた誰かがそいつに尋ねる。お前は誰だ?すると恐らくそいつはこう言うだろう。私は私だ。故にこの私の固有性が私ではない。

を考えてみるとやっぱり違う気がしないでもない。仮に名前を山田太郎とすると、私が私であることと、私が山田太郎であることは、なんか違う気がしないでもないなあっと。ま、今日はいいや。ここまで。

*1:環境を考慮して平行世界の自分と出会うってのも考えた。確かにそれは私ではあるがこの私ではないって結論になるけど、横道に逸れて分かりづらくなるだけな気がするからなし。