田舎の時間のゆるやかさ

あれは一体何なんだろうね。
ぱっと思いついたのは時間を気にさせるものや人が少ないから。例えば時間を気にしてせかせか歩くビジネスマンや忙しそうに走り回る車の大群の代わりに、腹出して縁台の日陰のところで寝てる爺ちゃんや人っ子一人として通らない道路があったら、まあこっちとしても時間を意識することもないのかなっと。
次に思いついたのは無防備さ。以前、インドネシアでは3回米が採れるって話を聞いて三毛作でもやってんのかなって現地に行ってみたら、元々稲の自生地だからいつ適当に植えても適当に生えてくるってことで、みんな適当に気が向いた時期に育ててたから3回くらい収穫があるっつーだけの話で、田んぼを見てみても、実際その通りで、植えた時期によって稲の高さがてんでバラバラだったインドネシアの風景を見た後に、日本に帰ってきたら、見渡す限り稲の高さが一定に揃っているのを見て、何か不気味なものを感じた、みたいなことを書いてた人がいたけど、それに似た無防備さ。
例えばみんな見た目を小綺麗に整えてピシッとしてるのを見たらこちらまでピシッとしなきゃいけない感じを受けるけど、トランクスにランニングを着て出歩く爺ちゃんや、ムームーみたいなのを着て世間話に興じるおばちゃん、暑いのか窓を全開にして生活感満載の部屋を開けっぴろげにしてる人などを見ても、別にピシッとしなければという印象は受けない。都会は日本の稲のような整然と揃っているような、こちらにまで無意識にそれを強いてくるような、印象を与えてくるけど、田舎の無防備さは、まるでインドネシアの不揃いな稲のように、ハナっから不揃いなのだから、揃った高さを求めるなどの働きかけをこちらに強いてくるような印象を与えることはなく、そのままを受容するような、あるいは何も求めず気にしないような、そんな印象を与える要因になってるんじゃないのかなっと。
しかしあれだね。脳内の思考をほとんどそのまんまタイプしてるせいか暑いと冗長な上に構造がわかりづらくて嫌になるね。一度ちゃんと直して出力するって習慣がないから、現実の環境があれで、思考能力が衰えると直結で、出力される文章もあれになる。ま、元から大したもんじゃないから、ほとんど違いやしないんだけどね。