古くからの家の都合で幼少より蟲に犯され続けてきた少女が、汚れを知らない綺麗な少女を汚してやりたいと望む。程なく家の都合で綺麗な少女を拉致して蟲で犯されるのを監視する役割になったのはいいのだけど、綺麗な少女はなかなか墜ちない。淫らに喘ぎながらも心は折らずに未来への希望を捨てずにじっと耐える。そんな様子を見て少女は苛立つ。
そんなシチュエーションの話があったわけだけど、ここで少女が苛立つ理由は、綺麗な少女が折れないことで、自分の欺罔を暗に指摘されるから。自分はそのシチュエーション故に汚くなってしまったと考えているのに、そのシチュエーションで折れない綺麗な少女を見せつけられることで、自分はそのシチュエーションを言い訳にしてるだけではないのかと思い知らされるから。そのシチュエーション故に耐えられなかったのは仕方がない、必然的なものだと認識していたのに、そのシチュエーションに耐える綺麗な少女を見ることで、あれは必然ではなく、自分の心が弱かったからなのではないかと突きつけられるから。これを他のトラウマ全般についても言うならばこうなる。過去のトラウマを理由に悪事を働いてるのは現在のお前だ、と。

性質と行為の話もそれと似ていて、どんな性質を有していようが、馬鹿だったり異常だったり変態だったり普通だったりブサイクだったりキモかったりしても、重きは行為に置かれ計られる。顔やら何やらの所与のものは言うに及ばず、仮に自分の行為の結果に得た性質だとしても、それは変わらない。例えば10年間毎日修行して得た剛の者が何かに立ち向かったとする。剛の者が立ち向かった。うん、いい話だ。逆に今度は逃げたとする。剛の者が逃げた。うん、ダメダメだね。10年修行しようがしまいが、その時に於ける行為によって計られる。

じゃ、逃げ出した剛の者はその後もダメダメなのかというと、そんなことはなく、また行為によって計られることになる。逃げ出した剛の者がまた逃げた。うん、ダメダメだね。逃げ出した剛の者が立ち向かった。お、やるじゃん。いや、たまたまかもよ?次は逃げるかもよ?でも、今回はやったじゃん。まあ、それはそうだけど。と、まあ、いろいろな意見は出るだろうけど、行為によって計られ、そしてその積み重ねが彼を評価する礎となる。

こう考えた場合、これはマイナスにもプラスにもなる。例えば10年間修行しても、逃げ出したらダメダメと言われるかもしれないが、逆に考えれば、いつからでもスタートができる。どれだけ失敗したところで、どれだけ不利な性質を有していたところで、行為によって示すことができる。だが、これは終わらない戦いとも言える。10年の修行もその後にダメダメであったら、ダメダメとされかねないということからもわかるように、常に現在の行為で示していかなければならない、不断の戦いであるとも。

でもまあ、現在という観測地点から無理矢理10年前という情報を引っ付けただけのこれと、実際に10年の重みで計られてきた人には当然のように違いがある。なぜなら、その人は10年の間、ずっと行為によって示し続けてきたのだから、それを、例えば1月に1回でも120回、見てきた人にとっては、そう易々と、1度の失敗で失われるものではない。

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以前書いたこの話のように考えるのならば、トラウマなんてほとんど関係なくなる。どんなトラウマを持っていたとしても、現在の行為を為すのは自分であるがために*1、その行為によって計られる。トラウマを理由に腐ってたとしても、言い訳にはならず、腐った行為を為す現在の行為で以て計られるのだから。
ただ、この考えは過剰な自己責任論のそれと繋がりかねないから、どんなもんかなあって気がしないでもない。たとえば敗者に対して自己責任論を振りかざす人が、そうすることによって状況や環境を一切無視して、もしも自分がその立場なら同じように敗者になっていたことを無視して、現在勝者として存在している己が勝利を噛み締めている場合があるようなそれと、接続しかねないから。まあ結果じゃなくて現時点での行為自体を評価する分には大丈夫なのかな?うーん、どんなもんかなあ。

*1:現在を行為をしている主体を自分とするから。