極端な話ではあるけれど

そもそもからして疑っていたりする。たとえば、マンガや何かによくある、無感情キャラあるいはロボっ娘などが初めて涙を流すシーン。これは何?それは涙ってんだ。涙?そうだ人は悲しい時に涙を流すんだ。悲しい?そうだそれが悲しいってことだ。というもはやテンプレにもなっているような、一連の流れ。そこに、ナンシーがテレビで挿入される笑い声に、笑い声という現象を先に用意することで、あたかもその原因である面白かったことが存在していたかのように錯覚させる手口、と評していたような錯覚が、そこにあるんじゃないのかなっと。
悲しいから涙を流すんじゃない。涙を流すから悲しいんだ。本当は悲しくも何ともないのに、涙が流れることで、そうか私は悲しいんだと擬態してしまう。そうすることで涙が流れる→擬態する、って流れであるにもかかわらず、私が悲しい→涙が流れるという風に、作り替えてるんじゃねえのかなっと、そんなことを割と本気で、しかも全般的に思っていたりする。だから私は主体なんかではなく、現象が発生すると現象の原因を擬態、同一化し、あたかも私が主体であるかのように振る舞う何かであると、感覚としては思っている。
じゃ、悲しいだの何だのってのは存在しないのかっつーと、そこは別に否定しているわけじゃなく、今こうして考えていると思っている主体じゃないところで存在している分には全然構わない。ただ、それはこの私ではない、と思っているだけ。以前ヨーグルトの話で、インプットした情報に快不快という出力を返す回路が存在していると仮定したように、様々な感情をアウトプットする回路があっても不思議ではない。まあ、快不快に、後付でいろんな言葉で分割しているだけにも思えるけど、同じ不快でも不愉快気が悪い気持ちが悪い生理的に受け付けない何か嫌だ等々いろいろ分けられるように、問題はそれはこの私じゃない、というところ。感覚的にそう思っている。私の考えの結果として答えがあるんじゃなく、すでにどこかで許認可された答えに合わせるように、この私が思い考えているかのように擬態しているんじゃないかという感覚。もちろん、こういった考えも含めて、全部が全部そうではないとは思うけれど、基本的に、割と大きな部分では、そうなんじゃないのかなっと。

例えばダブスタにそれは現れる。ヨーグルトに砂糖を入れるのは本場ではやらないと周りを批難しておきながら、酸っぱいキムチは嫌いだと言うので本場では酸っぱいのも食べるらしいと伝えると本場なんて関係ないと言う態度は、本場での食べ方があってヨーグルトやキムチがあるのではなく、ヨーグルトに砂糖を入れない食べ方が好きだから援用し、酸っぱいキムチは嫌いであるから援用しなかっただけであるように。

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