祈り

擬似的な行為なんだろうな、なんて思う。
たとえば自分の力じゃどうにもできない状況があって、自分の力じゃどうにもできないんだから祈ろうが祈るまいが結果には何の影響もせず、その視点から見れば、結果さんの視点から見れば、どっちも俺には何の影響も及ぼしてないでー、って話なんだけど、何もしてないで悪い結果になったら、一般的によく言われるやれることをやった上で失敗したのなら悔いはないって考えに基づいて、ああ、あそこで何もやらんかったからや、ってな悔いが残るけど、もしそこで祈ってれば、自分は自分にできるだけのことを、つまりはこんこんと祈り続けることをやったから、そういった後悔をすることはない、って違うか。
祈って失敗したら、祈りが足りなかったってことになるわけだし。だから、どっちかっつーと、結果に自分が何にも関係ないっていう放任に耐えきれず、祈った結果失敗したら祈りが足りないってことになったとしても、祈りが世界を形作ってるっていう価値体系の下にすがる方が、安心できていいよねーって感じか。だる。せっかくだから安心感より楽を選ぶぜ。