処女よりヤリマンの方が聖母に近いんじゃないかなーっと、とある話を読んでてふとそんなことを思う。マリアとは対照的なこれは、性に奔放な国とかいわれるところの、根っこじゃないかな、なんて。汚れを知らないってことで付加価値つけまくるより、汚れをすべて受け止めきる方が、魅力的だろう。そもそも汚れって考えないよってーのは置いとくにしても。

なかなかいいからだをしているのでうっとり見惚れながらじわじわ欲情しはじめていると、彼女はにっこりと純情そうな笑いを見せ、可愛くウィンクした。
「どや。一発やるか兄ちゃん。遠慮せんかてええで。あんたの股ぐら、どうせもうヌラヌラやろ」

筒井康隆 「エンガッツィオ司令塔 乖離」 P47

5歳の頃にルンペンにレイプされたのを始めとして、親父や同級生や先生やヤクザやオカマに犯されたり、まあその後遊んだりした彼女が、可愛らしい笑顔でこの台詞。処女が聖母なんて笑わせる。って辞書見たら「聖」に聖なる的な意味は特にないのか。じゃ、いっか。レズじゃないよ好きになった子がたまたま女の子だっただけだよ、みたいなもんで、神の子を産んだのがたまたま処女だっただけだよ、的な。や、ちょっと違うかな。
でも、まー、こういう人は魅力的だよねー。エロ同人にしても犯されてレイプ目で終了、なんてーのよりは、散々犯したつもりだった男に対して、たかだかセックスくらいで私の人格に傷をつけられたとでもお思い?なんてカンジで、ちょっとした逆襲する方がいい。こういう言い方は語弊あるだろうけど、大事にしすぎることでダメージでかくなるような、そんなんよりは、日常的なものとして、彼女のように、クソ!けたくそわる!なんて、犬に噛まれるくらいの方が、まあ健康的かな、って気はする。ま、それこそが多分な、幻想なんだろうけど。